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小さき人格保有者が自身に起こった変化や効能を能動的にいえることの凄味

ようこそ、お越しくださいました。

どうも、えんどう @ryosuke_endo です。

今回は我が家の子どもたちの話ではない。なんなら会ったこともなければ話したこともない、ただ、直接的ではないにしろ何かしらの縁によって手繰り寄せられた、ある人物の投稿にずいぶんと感動したことから本エントリーは感情的に描かれている。

それを踏まえ、この話は子どもとの生活を送っている人、子どもに向けて必死に足掻いてる人、子どもと一緒になって汗をかいている人、子どもに未来を託すよりも切り拓けるだけの支援をしていきたいと顕在的にも潜在的にも考えているような人に向けて送る。

※便宜上、子どもと表記しているものの、我が家で生活を共にする三名以外に向けて「子ども」と表記するのは本意ではない。

▶︎ あるサービスを享受した少年から世界に向けた感想

ひとまず…

何もいわず、何も考えずに次にリンクを貼る文章を読んでもらいたい。頼む。お願いだ。きちんと後で説明するから。お願い。読んで。

この文章は2022年4月時点で小学5年生となる男児が書いたものだ。

SOZOWという、オンラインで子どもたちの好奇心をガリガリと掘り起こす支援をする事業に出会ったことからの半年間を振り返った内容だが、ぼくは彼の書いた文章を読み終えた後には少しばかり手を止め、視線も動かすことを止めた。

これを書くのに何度、文章を練り直し、書き直しては言い回しや語句の使い方などを「自分の形」として納得させるまでにかかった工数はいかほどだったのか。どれほどの時間がかけられたのか。

約30年前にもなろうかという、自身の小学校5年生当時を振り返ってみる。
少なくとも夏季や冬季といった長期休みに学校図書室から借りた書籍の読書感想文を400文字で3枚など記載することに苦悶していた自分をだ。

いや、違うな。対象が違いすぎる。

これを書いた彼は少なくとも自身にとって変え難い体験をしたであろう機会に巡り会えたこと、さらに、偶然であったとしても見つけることができた自身への興奮と受容してくれた家族への感謝を記載している。

▷ 自分から自分に向けた数年後に見返すための手紙

そんな前提からすると、当時のぼくがイヤイヤ向き合っていた読書感想文と同一テーブルに並べること自体が非常に失礼でしかない。

彼の書いた文章は特定の個人に向けたものというより、おそらく1年後、3年後、5年後、10年後の自分や家族に向けて「いまの自分」から書いた手紙である。

ぼくはたまたま関係者の方から共有してもらったために出会うことができたのだが、少なくとも事業を提供する内部関係者がどれだけ訴求しようと練りに練ったテキストや画像、動画といった各種媒体を利用したコミュニケーションを図ったとしても敵わないものだ。

利益を生み出そうだとか、いい思いをしようだなんて彼にとっての下世話な欲求を満たすための下心から記載されていないからではない。

内容自体が「検討をしている人たち」が知りたいと思えることを丁寧に説明してくれているからだけでもない。

充実する体験や抱いた感情といった当人なりの事実を基に、彼が喜びや嬉しみを内包させた文章を書き、それが読み手にも目の前で話してくれているような臨場感を与えてくれるからだ。

ぼくは兼ねてから「ステキな文章には声が聞こえたり、実際に体感できるほどの臨場感がある」と考えているが、五感に訴えかけてくる文章なんてものは確かに存在するもので、彼の書いた上記のエントリーはその臨場感を自身の言葉で丁寧に紡いでくれるからこそ響く。

小学5年生だからすごいのではない。

当時の自分から現在に至るまでの自身を内省し、家族や学校などの外部要因に向けてどう向き合うべきなのかを冷静に整理している、この内省ぶりに感嘆するのだ。

▷ 年齢に関係なく自身の言葉を紡げる人の魅力

仮に彼のことを「小学5年生」だからとラベルを貼った状態で評価しているのだとしたら間違いである旨はすでに書いたが、年齢に関係なく、自身の変化へ如実に向き合い、それを自分に落とし込んだ言葉として紡げる人の尊さはもっと評価されるべきだ。

通り一辺倒な表記や語句、繰り返される表現を用いた文章にはなんの魅力もないだけでなく、「なぜ、その人が書いたのか」を想起させることもない。
ネット上に公開されてのだとしたら、誰の目に晒されることもなく、ただただネットの海を彷徨うだけのゴミとして、どこかしらのデータベースの容量だけを食い潰すだけのもので終わっただろう。

30歳になろうが60歳になろうが90歳になろうが関係なく、自身に起こった事柄や事象、それに関係する人たちまでを絡めた文章を紡げない人は紡げない。年齢を重ねたからできるようになるのではないからだ

自らの身に起こった体験や実感を自身の言葉として他人に理解されるような文章として紡ぐためには、言葉を選ばなければならないし選ぶことをした経験がなければならない。時には、言葉を捨てるような選択を繰り返さなければならない。

ただ選ぶのではない。捨てることまでするからこそ、文章が洗練され身体性を帯びてくる。

身体性を帯びた文章は、そこに執筆者の声だけでなく視線、身長や体重に身振りまで再現することができるようになる。

だから彼の文章はすごいのだ。

▷ 触発された人たち

以下はさまざまな利害関係にある人たちがTwitterに投稿したものだが、サービス提供側の事業者たちが喜ぶのはわかるが、それ以外の大人たちからも内容を受けて喜んでいるし、おそらく彼と同じ境遇にある仲間であろう人物も意思を表明するに至った。

子どもの未来を大事に考えて居る人たちだからこそ、子どもたちが「勉強」ではなく「まなび」を深める習慣を身につけるためにアレコレと必死になれるのだろう。

かくいう、我が家の三名の子どもたちにも、自身の好奇心を耕しながら領域を少しずつ広げていけるような姿勢を身につけてほしいと思う。

我が家の長男くんも新年度に入り学校に行くところまではできるようになったものの、教室で過ごすことまでは難しい。別にそれを問題だとは思っていないし、彼が学校に次男くんを連れて向かえている事実だけでも大したものなのだ。

そんな折に出会った文章を読んでいて改めて、学校に行くかどうかを決めることが重要なのではなく、学校でもやりたいことがあるのかどうかが重要なのかもしれない。

今回紹介している文章を書いた彼が、この文章を書くに至ったのはSOZOWというサービスに出会ったこともそうだが、その中で彼を支援する大人たちが彼の探究心や好奇心を挫けることがないよう丁寧に支援し、教え合える仲間たちに出会うことができたからなのだろう。

応援したい事業者や事業があれば素直に応援したいとsocial media上で記載するようにしているが、彼のような人物を属させるような魅力を抱くSOZOWも丁寧に成長していってほしい事業であると思えた。

ではでは。

えんどう

▶︎ おまけ

▷ 紹介したいnote

子どもの成長を願うなら、環境を整えるべし
「最適な環境」なんてものは誰にとってなのか、整える人間のリソースにまで影響を受ける非常に脆弱な可能性にかけるもので、なかなか実現しない。易々と実現はしないものの、仮に実現できるのだとしたら、それは本当にステキなこと。

子どもの成長をnoteで感じる
クリエイターとしての成長、みたいな文脈で考えてみると、子どもたちに制作してもらった作品などを定期的に載せる場所を用意した方がいいのは一目瞭然だが、同時に、何かしらのアカウントを用意して継続的にコンテンツを生成してもらうとわかり視覚的にも見やすくなる。

家庭における子どもの成長保障
子どもたちの成長を促進したいと願うのであれば、大人たちが知識や経験を増やそうと活動することは必要だ、と。この点にはぼくも大いに賛同するし、むしろ、その自己拡張の風景を子どもたちと共有することが子どもたちの成長とやらには必要なのかもしれない。

▷ 紹介したい関連書籍

科学的に考える子育て エビデンスに基づく10の真実
大事なのは経験則で提供してきたことと科学的な根拠に基づいた接し方との間に、どれほどの距離があるのかを認識することだ。あらゆる物事には根拠や筋道を立てることの優位性が求められるはずだが、それを無視していい理由は、特に大人にはない。

▷ えんどうのTwitterアカウント

僕の主な生息SNSはTwitterで、日々、意識ひくい系の投稿を繰り返している。気になる人はぜひ以下から覗いてみて欲しい。何ならフォローしてくれると毎日書いているnoteの更新情報をお届けする。

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ゑんどう ≒ 遠藤 涼介
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