errorを責めるばかりでいいのか
また松井さんの記事に触発されて記事を書いてます。記事の内容はアメリカの部活事情を伝えた前回記事の続編です。
アメリカの部活動はもちろんそうなのですが、欧州も地域総合型スポーツクラブに入会している選手たち(球技系競技)は、各カテゴリーでリーグ戦を行う方式になっています。
最近では日本でもサッカーはリーグ戦を導入し、レベル分けをした各カテゴリごとに総当たり戦を実施しているところもあり、これまでのようなトーナメント戦のみではなくなっています。
同時にトーナメントをおこなう形をとっているので「負けても終わり」という状況"のみ"ではなく、試合で出た課題に対し、次の試合に向けての修正を行えるということです。
今回、松井さんの記事内でもアメリカ的にいえばtry&errorを繰り返すことの出来る状況や環境は、産業界だけでなく、大学という教育システムの中で大学スポーツの中でもしっかりとと根付いていた、と。
逆に考えると、これはチャンスなのではないかと思うわけです。
どういうことかといえば、日本はこれまでその文化が根付いていないにも関わらず、オリンピックや各競技の世界大会でそれなりの結果を残してきたわけですから。
現状で言えば、未だに学生スポーツの大半はトーナメント制で行われているため、負けたら終わりの状況で常々追い込まれなければなりません。そしたら先日、大阪で中学校の女子バレー部で体罰だ、という報道が出てました。
まず、この件については「大阪」というエリアで起こったことが、本当に悲しくさせます。市立桜宮高校で体罰を苦に自殺をした件での認識が全く浸透していないことを指します。
これに関する当該指導者の責任は重く、桜宮高校の件を全くと行っていいほど履行されていないという実情が公にさらされたことを意味するわけです。
ただ、その道を間違えてしまうほどにトーナメント制での雌雄を決するというシステム自体が、大きな歪さをはらんでしまうシステムだということをもっと理解が進んでほしいと思う次第です。
トーナメント制"のみ"というシステムでは、失敗を許容されませんし、指導者の立場でも許容できません。なぜなら、失敗=敗北を意味し、すなわち「終わり」を迎えることになってしまうから。
この根本的なシステムの歪さに苦しめられてきた学生スポーツ経験者は決して少なくはないでしょう。
そして、このトーナメント制の歪さは、日本の中で失われた20年とか30年と言われる経済的な失速期間を指して使われる言葉をも生み出したのではないかと僕は強く感じています。
正確に認識を伝えると「失敗を許容できない人たち」が作ったシステムだから、トーナメント制で実施するしかなかったし、出来なかったということです。
もちろん、そのシステムの中で優秀な人材が多数現れていることは僕も実際に目にしてきました。しかし、主戦場を日本にした場合、という条件付きでもありますが。
ある特徴的な選手を評して同年代の選手たちと比較し、「規格外」という言葉が使われたりしますが、果たして日本の中で活動するスポーツを楽しむ選手たちの中で、本当に規格外の選手なんて存在するのでしょうか。
それは杓子定規的な物の見方をし、トーナメントで勝ち残るため(負けないため)に評される言葉であり、本当に桁違いの選手なんてのは存在するのでしょうか。
そういう意味でも、僕はこう思うのです。
こんな許容度の低い社会で生き残れるのは、マッチョで多少の難があったとしても優秀な成績を収めることの出来る人間だけであり、そういう人間に対してのみ道が開かれていた、と。
ただ、一握りの出来る人間であったとしても、成功したことを認められているから次なる成功に向けたの行動をとれるのであって、失敗ばかりを取り上げられ、捨て置かれたら腐ってしまいます。
そんな失敗に対する許容度の低い社会を形成してしまっている日本だから、先進的な取り組みを生み出すのではなく、すでにある成果物の練度を高めることが優れているのかもしれません。
今から日本をイノベーティブなエリアにすることは時間が必要かもしれませんが、人を巻き込むプロデューサー集団にすることは可能なのではないかと僕は思います。
だから、まずは新潟というエリアから少しずつ人を巻き込んでいくことを繰り返しおこなっていき、巻き込む人と巻き込まれる人が同数になるような活発な地域にしようと行動をしていきます。
そうしましょう。