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#えんどうnote 一都三県でオリンピックが無観客で開催されるけどパラリンピックのことを思うとよかった気も...

どうも、えんどうです。

職歴の中に「スポーツ業界」が10年ほど入っています。

「スポーツトレーナー」からはじまり、スポーツに携わることでお金が稼げないこと(自身の能力や取り組み方は棚上げしつつ、それ)をどうにかできないものかと「スポーツビジネス」なんて領域に足を伸ばしてみたり。

いずれにしてもスポーツが好きですし、「スポーツの力」みたいなふんわりとした表現が好きだったりもしました。

いまではスポーツは一つの表現や表明といった思想なのではないかとも思ってますし、芸術性のある高度な表現方法といえばいいでしょうか。

互いの高め合った肉体と精神、何よりも自身の強みや相手の弱みを戦略的・戦術的に攻略することを目指す表現のぶつかり合いがスポーツだな、なんて考えてます。

その際たる催しの一つがオリンピック・パラリンピックで、人種や国境、言語を問わずに競い合う場を用意し、「どの表現がすばらしいのか」を主観ではなく客観的な数値として記録し未来に残そうとする試みです。

小難しいことばで書き立ててますが、観客として見るのも楽しいし、自分がやることでも楽しいものだよね、なんて理解で大丈夫です。

今回は無観客での開催が決定したオリンピック・パラリンピックについての雑談です。

一都三県は無観客での開催

本来ならば2020年に開催される予定だったオリンピック・パラリンピックは、新型コロナウィルスの感染拡大に伴い2021年に延期となり、そもそも開催をするのかどうかの議論を経た末にさまざまな意見を飲み込みつつも、一都三県は無観客で開催されることとなりました。

この決定は国際大会で自国の観客だけでなく、開催国の観客まで入らない会場でスポーツで競い合うことを「受け入れられない」と出場を断念する選手もいるほどに、さまざまな波紋を呼んでいます。

政治的な判断をしなければならない立場に立ったことはありませんが、少なくとも簡単な判断ではなかったでしょうし、決定に至るまでに思惑や意志が絡んでのことでもあるので「大人って大変だな」なんて思ってたりもします。

これまで日本の中でもスポーツ興行と呼ばれるプロスポーツは観客を入れながらもクラスターを発生させずにいる現状を踏まえての判断だったのかと問う方々もいるので、本当に難しい判断だったんだろうとは思います。

日本人だけを観客として入れることは、公平性や平等性の観点から妥当なのかといえば疑問が残りますし、かといって国外の観客を入れてしまうことはクラスターが発生することにもなりかねません。

自分がこの意思決定をしろといわれたら、即刻ケツをまくって逃げてしまうかもしまうでしょうね、きっと。

やる・やらないのどちらにしても、悲しんだり苦しむ人が出る構造になっている以上、その悲しみや苦しみを抱えた上で判断しなければなりませんから、どんな判断を下すにしても難しい問題だったと感じます。

旧来的なオリンピックの開催様式に縛られてる

ただ、今回の延期から(一都三県での)無観客による開催までをボーッと眺めていて疑問なのは、「なんで旧来的なオリンピックの開催様式に縛られてるのか」なんてことです。

近代オリンピックの創始者であるピエール・ド・クーベルタンってフランス人は、自身が亡くなる10年ほど前の1929年にこんなことを述べてます。

「もし輪廻というものが存在し、100年後にこの世に戻ってきたならば、現世で苦労して築いたものを私は破壊することになるでしょう」。

これ、何をいってるのかといえば、自分が苦労して立ち上げたオリンピックってものを破壊するって言ってるんですね。

これの真意は当人ではないので分かりませんが、1896年アテネで第一回が開催された際にクーベルタンは以下のようにも述べていて、ここを起点にすると上の発言の真意に近づけるかもしれません。

「世界の紛争の種は他国への無知や誤解、偏見から生まれる。したがって、世界の人々との相互理解を深めることが重要である。近代オリンピックは、国際的な相互理解を進める有力な制度となるだろう。

こうなってくると、そもそも旧来的なオリンピックの開催様式にこだわり、そもそも観客を入れなければならない状態(もちろん放映権の話も含む)になってる2021年現在のオリンピックは果たして...なんて考えてしまいます。

パラリンピックにとってはよかった

オリンピックの創始者であるクーベルタンは「相互理解を深める制度」となることを目指してオリンピックを立ち上げたことがわかりますが、そうなると一都三県での無観客による開催も妥当性があるように思えます。

何かといえばパラリンピックの開催です。

本来的な意味でいうと、2020年の東京大会はオリンピック・パラリンピックと呼称されるものであって、オリンピックと単独呼称ではありません。パラリンピックもセットでの開催が根本なのです。

ところが、仮にオリンピックを旧来的な方法で開催したところ、クラスターが発生し感染が拡大してしまった場合、国として東京都として、組織委員会としても「パラリンピックの開催中止」を判断しかねません。

それでは本末転倒というか、そもそも開催要件はオリンピックとパラリンピックの同時開催のはずであり、オリンピックだけが開催されればいいというものではありません。

片方だけが開催されて、その際に感染が拡大したからともう片方は「残念ですが...」なんて逃れられるのかといえば、そうではないでしょう。

それはもう、ダメです。

パラリンピック開催までをトータルで考えてみると、今回の一都三県での無観客なんて判断もやむなしかなぁ、なんて思っていたりする次第です。

とはいえ、無観客なら無観客で放映するなら放映するで、旧来的なオリンピックでは楽しめない方法で配信するなど工夫はできるはずです。

走り高飛びの選手が走り出す直前の心理的な葛藤、孤独感みたいなものは無観客だからこそ静寂を利用して映像で表現できる可能性があると思いますし、ボクは観たいと思ってしまいます。

結局、はじまったらはじまったで選手を応援したくなる気持ちは変わりませんし、がんばってもらいたいという感情も変わりません。

今回の判断・決定が残念だったのかどうかも正直なところは分かりませんが、それならそれでやる意義のあるものにしてもらいたいとは思うのです。少なくとも「前代未聞だから悪い」なんてことは一切ありません。

これをお読みのあなたはどうですか。

ではでは。

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書いた人のなまえ:えんどう

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人事/広報(PR)ディレクター/ 株式会社アシスト(新潟エナジー) http://niigatadenki.com (新電力)【これまで】PR/ Maketing / SNS /オフィスえんどう(個人屋号) 【ほか】 #えんどうnote

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ゑんどう ≒ 遠藤 涼介
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