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『にいがた当たり前品質100』に記事を掲載していただきました

どうも、えんどう @ryosuke_endo です。

新潟※(コメジルシ)プロジェクトってのが新潟県のプロジェクトとして走っているのですが、その中のコンテンツ「にいがた当たり前品質100」に記事を掲載いただいたので、内容をもう少し掘り下げてみます。

ちなみにボクが書いた記事は以下から

##なにを書いた(要約)
・新潟のいいところを紹介するコンテンツに掲載
・通夜振る舞いと分人主義
・古いならわしも"あったかい"

コンセプトは「新潟のいいところを再発見」

新潟に住んでいる人たちからしたら「当たり前」だと思っていたとしても、県外や海外の人たちからしたら「ステキだよね」、「誇らしいよね」なんてことを再発見、再認識しようってところから作られているのが「にいがた当たり前品質」だ、と記事執筆のお話をいただきました。

まぁ、ボクが書いたところで誰が読むわけでもないだろうけれど、せっかくの依頼なので書かせていただくことにしたのですが、いくつか提示した内容は「一般的」すぎて却下。

「もっと自分の実生活に寄ったものを...」と言われたので、これまでのフラフラとした自分の生活を振り返ったうえで客観的な視点で考えてみると、それなりに不可思議というか違和感、差異を感じた場面がいくつか浮かんできたので、それを書いてみたら冠婚葬祭の内容を書くことに。

一つは結婚式のこと、もう一つは葬式のこと。

改めて自分で書いておきながら振り幅のある内容で、且つ「よくこの二つを一つの記事の中で同時に掲載してくれたものだな」とも思う次第ですが、内容としては土着性が高い、言い換えれば互いの距離が近しいからこその風習なのかな、と記事を書かせてもらったおかげでポジティブに捉える機会になりました。

通夜振る舞いは最後まで

お通夜には参列したいとは思いません。

ボクは人が亡くなることを知ってはいますが、唐突に聞かされると動揺しますし、その方の存在感が全く見えなくなった世界観を受け止めるのに、少し時間的な猶予が必要だろうな、と思うのです。

分人主義って考え方があります。

人は「関係性によって引出される感情が異なるだけで、"本当に自分"なんて存在しない。つまりは感情の濃淡があるだけだ」とするものです。

新聞で知りもしない人が亡くなったことを把握しても悲しくはなりませんが、自宅で共に生活をしていたネコが死んでしまったら大いに悲しくなります。亡くなったことにおいて、異なるポイントは引出されていた感情で、それが濃いのか薄いのかの違いで出す表情や態度を変える、これが分人主義の大雑把な説明になります。

それなりの時間を共有してきた人が亡くなることは、その感情を引き出してくれる相手がいなくなることを意味します。分人主義的に考えると、人が亡くなった時に悲しいのは、その人が亡くなったことよりも、その人から引出されていた感情がなくなることが悲しい、となります。

新潟は通夜に参列すると通夜振る舞いを出され、それをいただきながら故人を偲ぶわけです。時間が許されるのであれば、最後まで残ったうえで喪主の挨拶を聞き、「それでは...」と失礼するわけです。

ところが、その話を関東方面出身の方や在住の方に聞くと「いや、最後までなんていないよ」なんて言われたので「...え!?」となりました。

関東方面が冷たいとか、そういう言い方をしたいのではありません。

最後まで残るだなんて、できる限り、故人から引出された感情を大切にしたいって姿勢の話で、それを共有する場所として通夜振る舞いが機能しているのかな、と。

結婚式に妻さんの父方の実家の近所の人が列席

ボクと、妻さんというか彼女というか奥方さまというか細君は2011年に結婚し、同じ年に結婚式を催しました。多くの方に参列いただき、とても良い式だったと我ながらに思っています。

多くの方がそうなのかもしれませんが、結婚式はもう一度やってもいいかな、と思いますが、結婚式の準備をしたいとは思えないぐらいにシンドかった思いばかりがよぎってくるからです。

きっと、それって本質的にはボクと妻さんの二人、もしくは本当に近しい家族までで止めておけばよいものを、そこから派生する親族や知人・友人にまで参列を求めるからで、そうなってくると「多くの人が来るんだから」と互いの家族のあり方や態度、姿勢が如実になって生の感情がさらけ出されることが嫌なんだと実感しています。

その中でもボクが驚愕したは妻さんというか、彼女というか、奥方さまというか、細君の父方の実家の近所の人に列席してもらうことになった件です。

わかりますかね。親族でもなければ、夫婦となりましたと報告する、いわゆる主役であるボクや彼女の知人でもなければ友人でもなく、「親族の近くに住む人」が結婚式に列席されたのです。

当時のことを振り返ると、若かったボクは憤慨しました。

「ふざけるな」と。その人に参加してもらうことによって、彼女は友人や知人で呼びたいと思っていた人数を削らなければなりませんし、第一、彼女もよく知りもしない人をなぜ呼ばなければならないのか。

その理由が「そういう風習だから」だったのも憤慨した理由の一つです。そんな思考停止あっていいはずがない!と彼女に矛先を向けてしまったのは、当時を振り返っても申し訳ない次第で、彼女にもどうすることもできない問題だったのです...。

ただ、いま考えるとすごいな、とも。

その人、全く知らない人の結婚式に参列したわけですよ。ただ家が近所の人の孫が結婚するって話を唐突に聞かされて、お願いされたんでしょう。

「このたび、かわいい孫むすめが結婚します!つきましては、その結婚式に出てくれませんか?」なんて具合にね。

いま、ボクがそれを聞いたら「え?いや、は?え?なんで?」とお断りをするでしょうし、何よりも当事者である結婚式を主催する人たちのことを考えると、とても参列できません。

おそらく、その土地では近所で祝言などのおめでたいことがあろうものなら、街というか集落単位でお祝いしようってことが"ならわし"になっていたんでしょうね。

通夜振る舞いも、結婚式の列席いただく話も、結局は人の距離感の話で、大事に考えてきたのかな、と前向きに想像すると、「なんだかあったかいな、にいがた」と思えました。

以上、記事補完的な内容でした。

それでは、また!

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