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子どもとの生活における理想と現実のギャップを埋めるため

先日、妻と『子どもへの接し方』について話をする機会があり、それがなかなか面白かったので、書いてみたいと思います。

あ。

そういえば、僕は自分と結婚してくれた女性のことを『嫁』と書き記すことが多かったのですが、よくよく調べてみたら、『嫁』は男性側の両親が使用するものだということがわかりました。

そこで、僕はこれまでの #我が家の嫁 という呼称から #我が家の妻 という呼称に変更することを、ここに宣言いたします。


さてさて、子どもへの接し方、という一緒に生活をする大人からしたらとんでもない重責と課題がふりかかるものではありますが、果たして何をどうしたらいいんでしょうね、という話をしたわけですが...

結論から。

理想と現実のギャップを認識するという『観察』
現実から理想へ近づけるための『設計/環境設定』
実際にやってみた(やらせてみた)上での『検証/改善』

これらが必要ですね、なんて話になりました。これは僕の意訳ですので、妻からしたら『何いってんだオメー』みたいな反応になるかもしれませんが、とにかく、これは僕の意訳ですので悪しからず。

小難しい説明を入れるつもりはないので、簡単に説明するようにします。

観察⇒設計⇒検証というプロセス

彼らの様子を保育園や家庭内での行動を照らし合わせながら観察します。

保育園では、集団の論理みたいなものが働きますから、一様に彼らの行動の本質的なものというよりも、その『場』の行動みたいなものになるのではないか、と考えてます。

大いに参考になる場合とならない場合がありますが、基本的にそこでできることは自宅でもできると考えていいのではないかなぁ、なんて思う次第です。

例えば、『自宅で夕飯を食べますよ』といった段で、彼らが『自らの食器類を何が夕飯として出てくるのかを持って判断し、用意できるようになる』という崇高な目標を立てたとします。

その理想に対して、彼らは何ができて何ができないのかを観察した上で設計をします。この場合の設計は、問いかけになるのかと勝手に思っていますが、その方法は人それぞれに異なるでしょう。

箸なのかスプーンなのかフォークなのか。
どんな形状のお皿が必要なのか。

その際にも程度はあるでしょうね。問いかけ方というか。今日はパスタだよ、と言葉だけで伝えるのか、実物を見せながら「これを食べるために必要なものは」といった具合に問いかけるのか、はたまた、と。

実際に用意してきた食器類と、こちらの思っている必要な食器類に違いが生じたとしても、別に構いません。根本的には、それで食べれるのであれば問題はないわけですから。

パスタを食べるのに、フォークとスプーンで食べなければいけないわけではなく、箸を使って食べられるのであれば問題ないのと一緒です。

ただ、うまくできない時のことを認識してもらう必要はあるのかなぁ、と思っていて、自分がとった行動が自分にとって不都合なものだった時に感じる違和感を実体験として得てもらうという意味です。

その本人の実体験と、大人たちが準備した設計を踏まえた上で、どんな齟齬が生じているのかを踏まえて検証を行いながら、日々の生活する中で改善内容を当て込んで行きます。

これらは別個に用意をするわけではなく、円環状プロセスであることが向上させていく上では不可欠だと思いますので、常に繰り返していくようなイメージです。


まぁ、とはいえ、我が家の妻的にいえば「そんな余裕、あるわけねーだろ」みたいな言い方になるわけですが、それは仕方ない部分があって、我が家は絶賛、核家族(5名家族)で大人は数的不利な状況。

特に3番目の息子に関しては7ヶ月という幼さのため、そんな余裕を作り出すことは難易度が高いのは目に見えているわけです。

なので、我が家の落とし所は、夕飯時に僕がいる状況の中で、試験的にやって見る、というところで落ち着きました。

「言うは易し、行うは難し」なんて言いますが、実際にやってみないことにはできるのかできないのかも判断できませんからね。

またやってみた上で書いてみようかな。

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ゑんどう ≒ 遠藤 涼介
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