失敗の経験、というお話
全てが思う通りに行く、なんてことを思ったとしてもその通りに行くぐらいに甘い世の中であれば、どれだけ楽なのかと思う。
小さい頃から青年期にかけて、自分の父親や地域のおじさんたちに「世の中甘くない」みたいなことをよく言われた。
納得できなかった。
目の前にいる大人たちは、そんな「世の中」を甘受し、「そういうもんだ」とあきらめ顔で僕に説教する。
おそらく、当時の彼らは諦めたくなかったけど、思う通りにいかないことが多く、くじけてしまったのだと今ならば少しだけだけど理解できる。
僕自身も、これまで思う通りに何もかもがうまくいってきた訳でもないし、そんな風にできたとしても楽しい人生なのかと言われたらよくわからない。
喜怒哀楽なんてのはよくいったものだとは思うけど、人の感情を4つのカテゴリーに分けようとすることもなんだかおこがましい気もする。
そんなこと言ったら血液型もそうだけど、それを言い出すとカテゴリを分けようとすること全てに対して一悶着つけないといけなくなる。
そんなことがしたいとは思っていない。
うまく行くことといかないことの境界線というのは、いくつかの経験を重ね(それは特に失敗の経験)、考えられるようになり、感じられるようになるものだ。
例えば、僕はサッカーをしていて、GKというポジションだった。
GKというのは良くも悪くも全体が後ろからよく見えるもので、どんな状況なのかを瞬時に「感じ取る」ことができる。
まぁ、得てして多くを感じ取るのは失点の雰囲気な訳だが...
そんな失敗の積み重ねを嫌う人の方が多いのだろうし、僕だって基本的に失敗をしたくない。だけど、失敗がなければ何が成功かもわからない。
いま、僕が個人でイベントを開催に向けてひた走ってる理由は失敗を探すためだ。今回のイベントを何もかも思う通りにコトを運べるとは到底思っていなかったし、現在も思えていない。
やろうと決めた時も、開催が1週間ほど前になった現段階においても、何もかもが不安だらけ。
だけど、失敗だらけになったところで誰かを傷つけることになるのかといえば、そんなことはない。
でも、僕は傷つくかもしれない。けど、それは僕が望んだことでもある。だから別に構わないし、何か新しいことをやろうとする時に、失敗がないこと自体が失敗なのかもしれないとも思う。
こイベントにおけるサポーティングチームへ参加してくださる方々からは多くのknowledgeを共有していただいていて、それはみなさんの「失敗の積み重ね」から得た教訓だ。
なんのこともなく会話を開始し、すごく的確な方向性を示してくれる発言の裏には、多くの失敗を重ねてきた過去がある。大小あるかもしれないけど、僕は経験できなかった失敗の経験。
この失敗の経験を共有することが不足しているからなのか。
日本が失われた20年だとか30年だとかいっている。30年って僕が物心がついた頃から日本は「何か」を失っていたということ。
なんだそれは。
今になって思う。
公務員の人たちがやたらと紙とファイルで「根拠」とやらを求めるのも、銀行に行った時に「印鑑」なんていう「証拠」を求めることも、全ては「失敗」が嫌だから来ることだ。
それが行きすぎた結果、がんじがらめの窮屈な、失敗を許容できない社会になってしまった。
冒頭で書いた僕の父親世代の人たちは、そんな中で失敗を重ねようとしたのに許されなかった人たちなんだ。
それこそ失ったものだと言える。
だから、少しでも失敗に対して寛容に、むしろ歓迎すべきことなんだと思える雰囲気を作りたい。せめて、自分はそれを認めるようにいたい。
そんな風に思う、今日。