全てがうまくいくわけではない、というお話
遠藤涼介(33)、「想いをカタチにする」大変さを実感中。
誰もが羨むようなスーパースターに僕はなれないことを20代中盤で気づいたけど、それでも諦めきれずに色んなところに顔を出し、面識ができた人を仲良くなればそれで自分が買われるのではないかとフットワークを軽くした。
フットワークが軽くなったからといって、僕自身の何かが変わるわけではないということも身を以て体験することができた。
僕は過去に精神的に病んでしまった時期がある。
時期があるというぐらいなので、それほど長い期間を精神的な鬱屈を抱えながら過ごしたわけではない。
だけど、屈した感は拭えない。
そこから長い休暇期間に入り、過去の自分へ縛りが何もない世界に飛び込んでみようと、それまでの世界とは異なる世界を見にいってみたりした。
そこで気づいたことが一つあって、結局、「人」が仕事をしているんだということ。
頭も使わずに機会がやったほうが早いと思われる仕事でも、今はまだ人がやっていて、それを残そうと必死になっている人たちもいて。
その残そうとしている人たちだって、僕と同じように生活があって。
その生活の基盤となる収入を得るために、人それぞれだとは思うけど、少し嫌だと思うことでも我慢しながらやるのが仕事だと思ってるのかもしれない。
「嫌だな」って感じる部分の大半は人間関係で、例えば同じExcelファイルで計算表を作成するという仕事をしたとして、それを「誰に」提出するのかによって仕事が嫌かどうかって決まる。
もちろん、その仕事が「自分がやらなくてはならない仕事」だと、その仕事自体にやりがいを感じない人は、そこに嫌だと感じてしまうだろうけど。
その仕事の受取手が誰で、その人との関係性が前提になるという事も加味して、嫌だと「感じる」のだと僕は思う。
結局、そこにあるのは「人の感情」で、あらゆる仕事がある中でもそこだけは人が存在する以上は残っていくものだろうし、そこを刺激できるものが立派な産業になっていくのだろうな。
ある時、それまでの世界とは全く異なる場所に行き、ある程度の期間を過ごし、そこに息づく人たちと交流を深めている中で、そんなことを感じた。
誰もがやりたいと思える仕事をできていないから、娯楽が必要で、息抜きが必要なんだと。
その娯楽だとか息抜きってのは感情のことで、そしたら仕事とは言わずとも自分が何か行動を起こすこと自体が息抜きになってもいいのかもしれないって。
それで4月から全く新しい環境で仕事をさせてもらうことになり、家庭でも3番目の息子が出てきてくれた。
何でもかんでもうまくやろうと思ってもできないけど、時間をうまく作れないかもしれないけど、その中でできることを繰り返すことが大切なんだと思って今に至る。
蓋を開けてみたら、なんとなく不安に感じていたことが猛烈な勢いで吹き出しており、その蓋は閉めることはできないという感じ。
それを受け止める以外に今は方法がなく、そこからの対処をどうするのか。
それが大きな課題。
この先に、僕が目指したカタチがあるのかどうかも見えてないけど、今はそう考えて進むしかない。
そう思う09月18日です。