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プロジェクト型の仕事は会社から切り離されていくんだろうな

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どうも、えんどう @ryosuke_endo です。

Bullshit Jobsブルシットジョブなんてことばをご存じだろうか。知らなかったとして、何ら問題になるようなことはない。むしろ平穏な生活を送れている証拠だから気にする必要はない。

「bullshit」とは雄牛の糞って意味だが、いわゆるスラング(同一の生活体験、同一の利害関係にある人の間で用いられる卑俗なことば、俗語。品のないことば。)で、「クソ」「ふざけんな」「むちゃくちゃだろ」なんて具合に、信じられないような発言や行動をとった対象に向けて言い放つ悪口だ。

海外ドラマ、特に米国ドラマや映画をご覧になっている方ならば頻繁に出てくることばだろう。

これに「Jobs」がついている。世界で最も時価総額の高い会社をつくった共同創業者のことを指して「クソ野郎」だと罵るような意味ではない。そのまま「クソみたいな仕事」なんて、少し高貴な方々が聞いたら顔をしかめてしまうような低俗な表現である。

しかし、昔々は労働者階級と貴族階級と呼ばれていたことは歴史を学んだことのある人であればご存じだろう。ここ30年の中で仕事に高貴さを求めるようになったが、一昔前までは低俗で生まれガチャに失敗した人たちが享受せざるを得なかった低俗なものだったことは歴史的な事実だ。

多くの仕事は誰の役に立っているのかがわからなくなっているのにも関わらず、我々はそこに何かしらの意義や目的を見出そうと躍起になり、自己を正当化しようとする。

Bullshit Jobsを踏まえて「仕事」とやらに向き合ってみると、プロジェクト型のクリエイティブな仕事は「会社」から切り離されていくんだろうと考えるようになったので、Bullshit Jobsの説明から理由を考えてみたい。

▶︎ Bullshit Jobsはホワイトカラーの仕事を指す

そもそも世の中のためになる仕事なんてものは存在するのかを問うものとして文化人類学者のDavid Graeberがを2013年にBullshit Jobsと名付けたessayエッセーを雑誌に寄稿し、あまりにも大きな反響を得たことから書籍を2018年に上梓した。日本版で『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』と名づけられ岩波書店より刊行されている。

上記の執筆者であるDavid Graeberは、いわゆるホワイトカラーと呼ばれる知的労働だといわれるような仕事のことをBullshitだとしており、その理由は無駄な仕事を無駄だと思わずに増産し続けているからだ。

いわゆる日本語で管理職と呼称される調整ごとを中心に業務を担当する職業は、何も創造しない。

たとえば、映画をつくるといった創造的な仕事は会社員が行うことはなく、会社員が行うのはあくまでも各種日程管理や施設予約などの調整ごとに終始する。

映画に限らず、世の中にないサービスをつくろうと躍起になるスタートアップが大手事業者と手を組み、自らが抱える先見的な技術を披露し、見事な成果物を創作する一方、それを広めようと画策する会社員や管理職は直接的に顧客に何かを提供する立場になく、一つのコマとして円滑に物事が進むように取り計らうことを行なう。

結果、利害関係者の複雑な契約を管理したり、各種調整を行うようなバックオフィスを管理する仕事が発生するわけだが、彼/彼女らがいなければ会社の名前をつけて各種コンテンツが流通することはない。

▷ 無駄な会議は無くならない

どんな製品やサービスといったコンテンツも会社のブランドを使用して流通させる以上、管理職の仕事がなくなることはないのだが、直接的に多くの人に役に立つ仕事であるのかどうかは甚だ疑問だが、多様性を標榜する社会が形成されている以上、契約などといった調整ごとの重要性は増すばかりだろう。

そのため、世の中に何の貢献をしているのかはわからないものの、自分に向けてハッキリと職域として与えられる仕事はより細かく精緻になっていくため、なくなることはない。

David Graeberはホワイトカラーの仕事なんてものはBullshitだが、看護師やゴミ収集、清掃員などは「直接的に社会に貢献することが可能」なEssential Worker(エッセンシャルワーカー:人々の生活にとって必要不可欠な労働をおこなってくれる就労者)だという。

直接的に社会に貢献する。その文脈で仕事を見た際に、ホワイトカラーの仕事は見えにくく、表立って評価を受けることもない。ハッキリいって地味で肉体的な損傷は少ないものの、社会に直接貢献するようなことはない。

その典型が会議だろう。

あらゆる物事の調整を行う必要があるホワイトカラーである管理職は、各種調整に該当する当事者との間で認識の齟齬がないか、書面に不備はないか、というったそれぞれの疑問や質問を受け付ける場として会議を設定する。

中には決定事項を確認するために行われるためだけに行われるようなものまで存在するが、その理由は誰か決裁権のある人間に責任を持たせるためでもあり、自己正当化だけでなく自己防衛的な意味においても会議の存在は非常に重要なのだろう。

つまり、ホワイトカラーの無駄な会議は今後もなくならない。

▷ クソみたいな仕事の方が報酬が高い

同時に、ホワイトカラーの仕事における大半がなくなったとしても、社会的に困ることはない。

Graeberのことばを借りると以下の通りだろう。

ベンチャーキャピタルのCEO、ロビイスト、広報リサーチャー、数理士、テレマーケター、執行官、または法律コンサルタントらが同じように消えてしまったとしても、人類が同じように苦しむかは完全に明確ではない。

労働時間について、厚生労働省Webサイトには以下のように記載がある。

・使用者は、原則として、1日に8時間、1週間に40時間を超えて労働させてはいけません。 ・使用者は、労働時間が6時間を超える場合は45分以上、8時間を超える場合は1時間以上の休憩を与えなければいけません。 ・使用者は、少なくとも毎週1日の休日か、4週間を通じて4日以上の休日を与えなければなりません。 労働時間・休日_厚生労働省

この労働時間は誰のために設定されているのか。それをやりたくない、もしくは現実的にできないと実感している使用者側の観点からだ。

つまり、やりたくないけど事業を行う上ではやらなければならない仕事を自身の代わりに担ってくれる人材に向けて金銭を支払って代行してもらうのである。

上で記載したようなバスの運転士や看護師やごみ収集などの人の生命や都市の衛生管理、景観に関わるようなエッセンシャルワーカーは、相応の訓練時間があれば誰でもできるようになるものの、企業弁護士や弁理士など資格が要求されるもので、そちらの方が給与所得が高くなる。

直接的に社会に貢献できると本人が思っていない職業であっても、社会における労働市場の需給バランスによって困難であるとされる知的階層の高い(と思われる)職業の方が高い報酬を取得し、社会としても必要で本人としても必要性を実感できる職業では報酬が低くなる。

なんとも皮肉な結果であるが、それが社会のありようなのだから仕方がないだろう。

▷ 創造的な仕事が会社から切り離される

ここでやっと冒頭の話になるが、もう説明は不要だろう。上記してきたような理由からクリエイティブで何かを生み出すような仕事が「会社」という枠組みから切り離されるのは必然的だ。

いわゆるホワイトカラーの管理職たちは、あらゆる事象に対応するための術として契約等の法律的な側面や金融的な側面において創造物を保護する役割を担うのが主たる業務だが、もちろん彼/彼女らに創造的な業務を行えるわけではない。

反対に、創造物を制作できる人物であったとしても、その創造物を個人で管理するわけにはいかない。著作権等の権利関係と丁寧に整理しまとめてくれる存在が不可欠なのはいうまでもないが、彼/彼女らが単一の企業に属し、創造物を単一的な企画におし嵌めてしまうことは損失だ。

たとえば、ジュラシックパークやタイタニック、ETなど、あらゆる映画作品を世に生み出してきたSteven Spielbergがどこかの会社の従業員として創造物を制作することなど、どう考えても社会的な損失でしかない。

つまり、今後は「創造的な仕事をできる側」と「創造的な仕事はできない管理職」とで業務が切り分けることが多くなっていき、創造物を制作するのはフリーで動くような人たちであり、それらの権利関係などを整理保管するホワイトカラーという形で推移していくのではないか。

フリーで働くことを選択した人たちには情け容赦なく「実績」を求める姿勢が強くなるため収入における二極化は避けられないだろうが、同時に、ホワイトカラーはホワイトカラーで業務はより細分化され、誰でもできるような仕組みが構築されるため薄給になっていく。

果たして、どうやって生きていけばいいのかを悩ますような時代になったが、それに悩めるだけでもまだマシなのかもしれない。

ひとまず、ぼくはコーヒーでも飲むことにしよう。

ではでは。

えんどう

▶︎ おまけ

▷ 紹介したいnote

本社は丸ごとブルシットなのか?

ブルシットジョブと揶揄することは簡単だが、当事者である人たちからすると、そこに誇りを持って働いてしまっている人たちほど面倒な人はいない。

好きを仕事にって言うけど結局どういうことなのか

好きを仕事にできるのであればいいが、そんな人は少数派である。大抵の人は誰かがやりたくもない、押し付けてしまいたいことを我慢して行うからお金をもらっているのだ。

必要のない仕事

このように回顧でき、自覚できるのであればどんなにBullshit Jobsを担っていたとしても救いがあるのかもしれない。自覚を持つからこそ、エッセンシャルワーカーの存在意義を十分に認識できるからだ。

▷ 紹介したい関連書籍

ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論

気分を害した人もいるだろうが、少なくとも自分の仕事がなくなったとして社会に何の影響があるのかを考えてみることは大事なことだと思う。それは自分の身銭を稼ぐための手段でしかないのか、それともなくなってしまうと困る人が多数いるのか。

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ゑんどう ≒ 遠藤 涼介
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