親が笑顔でいることの"破壊力"というお話
フジロックが大人だけでなく子どもも楽しめるようにと心を配っているのはフジロック好きな人たちならご存知だと思います。
ご存知ない方は、ぜひ、下の記事を読んでいただきたく思う次第です。
今回、せっかく記事になっていることもありますので、これを機会に親が笑顔でいることの破壊的なまでの影響力について書きたいと思います。
ぼくは新潟県のど真ん中にある燕市という町で育ちました。
両親は自宅兼店舗でそば屋を営んでおり、昔は法人化していましたが、現在は個人事業として営んでおり、いまも地域の人達に愛されながら営業しています。
ぼくの当時の家庭環境でいうと、自宅兼の店舗だったので、両親との時間はまったくありません。正しく説明すると、家の中に両親はたしかにいるんだけど、一緒に時を過ごすことはできませんでした。
それを寂しいということばで表現することは簡単で、いまとなってみれば仕方なかったなぁとも思います。ある程度の年齢になって以降、両親は謝ってくれるのですが「別に仕方ないんだからいいよ」と。
ぼくが当時の状況を振り返って、何よりもしんどかったと感じているのは、ぼくの姿を見た両親が笑顔でいてくれるという実感を得られなかったことです。
小学生の高学年や中学生になり、ベランダから母親が笑顔でぼくを迎えてくれたことは、いまでもスゴく印象が残っていますし、嬉しかったなぁと素直に思うのです。
けど、ぼくがもっと幼かった頃、夕飯を親とともに食べる機会は決して多くはありませんでしたし、近くにある親戚の家で食べることがほぼでした。
それが嫌だったわけではないものの、居心地の悪さを感じながら過ごしていたのは記憶しています。繰り返しますが、別に嫌だったわけではありません。
ただ、「自宅ではない」という心持ちでいたことは事実ですし、それが解決できる問題ではなかっただけのことなのです。
幼心と童心を抱えながら過ごしてきた中で、小学校6年生の時に体育館とグラウンドを利用してペットボトルロケットを作るという行事がありまして、そこに父親と参加した時の記憶がすごく鮮明に残っています。
内容はいたってシンプル。ペットボトルを各自で持参し、そのペットボトルを加工してとケットとして飛ばしましょう、というもの。
その時はタイミングよく、お店が定休日だったこともあり、父親が行事に参加してくれました。
ぼくは父親が行事に参加してくれること自体に子恥ずかしい気持ちになりながらも嬉しく感じていましたし、いまでも思い出すと嬉しくなります。
それぐらいにぼくにとっては貴重な体験であり、大切な行事となったのです。しかし、ペットボトルロケットは飛んでくれませんでした。
どこか工程がおかしかったのかもしれませんし、ペットボトル自体の問題なのかもしれません。
いずれにしても、いくら水を入れて空気も目いっぱい送り込んだとしても、力なく水を吐き出すだけ。
周りの子たちが飛んでいくロケットに対して喜びを爆発させている中、ぼくと父親のつくったロケットは飛んでいきません。
そんな状況が悔しくて悲しくてもどかしくて...小学校6年生のぼくは人目をはばからず号泣しました。
せっかく父親が行事に参加してくれる機会だったにも関わらず、うまくできなかったことがすごく切なくて苦しかったのだけ覚えています。
気を使った周りの誰ともしれぬ父親がうまく飛んでいくロケットを貸してくれましたが、そんなものはいらなかった。
ぼくは『父親とともにつくったロケット』を大空に高く飛ばしたかったのであり、既製品はいらない。『ぼくと父親の合作であること』が重要なのであり、飛べばいいというわけではないのだから。
ただただ、泣き叫ぶぼくをみながら「泣くなよ〜」なんて少し戸惑っていた父親が「もう一回、作るか」といい、余っていたペットボトルを貰い受けに行ってくれました。
説明書を熟読とはいわずとも、再び二人で工程を確認しながらペットボトルロケットを再作成し始めましたが、先ほどとはなんら工程に違いはありません。
当然と言えば当然なのですが、完成しても期待感は少なく、不安感の方が大きいぐらいです。水を入れ、空気入れを使って空気を充満させ、発射スイッチを押します。
『ブシュー!!』という音とともに、ペットボトルロケットは空高く、そして遠くに飛んで行きました。
そのとき、父親を見やると、ぼくを見ながら満面の笑みを浮かべていてくれました。嬉しかった。
普段、父親の顔を見る機会はそれほど多くありませんでしたし、笑顔を見る機会などそう記憶にあるわけではありません。
いま考えると、父親も同じような気持ちだったのかもしれません。
行事というものに参加したことはなく、そこに息子を連れて行くことに対しても不安があったでしょうし、うまくできなかった時の対処も正直、思い返せば褒められたものではありません。
しかし、同じくらいに不安を抱えていたもの同士でもペットボトルロケットを空高く、遠くへ飛ばすことができたという結果が何よりも嬉しく、達成感があったことは確かです。
あの時の父親の笑顔をぼくは忘れることができませんし、あの笑顔を出してくれたことはぼくの父親に対するなんとも言えない後ろめたさみたいな感情を拭い去れたと思っています。
そして、父親笑顔が好きになりました。
あんな風に笑うことができるんだ、とは知らなかったと言えば知りませんでしたし、そんな笑顔を持っていることもわかりませんでした。
そこからのぼくは、できる限り父親を笑わせたい、笑顔を出したいと思っていたのは事実ですし、なんとか見せてもらいたいと思いながら行動してきました。
あの笑顔は『認められた証』のようなもので、その影響力はいまにまで至ります。
もうすでに33歳を超えたぼくですが、彼が生きている間にもっと多くの笑顔を見たいと思っています。
頻繁に会うわけでもありませんし、会いに行く用事もそんなにありません。たまに会う関係でしかありません。お互いに優先すべきことがあります。
それでもぼくは彼の笑顔を忘れられませんし、貴重な体験をさせてもらったと思っています。ぼくのしたことではなくとも、ぼくと生活を共にする子どもたちの様子をみて笑うでも構わないのです。
だからこそ、ぼくは共に生活をする子どもたちに笑顔を出していきたいと思いますし、自然と出させてくれていることには感謝しています。
そんな風に思えるのは笑顔を見せてくれた親がいたからなんだろうなぁ、というお話でした。