同窓会、というお話
先日、卒業して18年が経過した中学校の同窓会というやつに参加してきまして、そこで感じたこと。
同窓会、とか同級会という集まりに行ったことは正直にいうとありません。
「お前は友達がいないのか」とか「人望がないんだな、遠藤よ」というご意見、もっともだと思いますが、それだけで片付けるのはもったいないのです。
そもそもぼくが卒業した中学校で同窓会というものが開かれたことがなく、卒業から18年が経過した今年、急遽開催される運びになりました。
18年越しに開催といっても、大半の人たちには成人式の時に会っていますし、そこから考えると12、3年振りの再会。
ぼくは地元に残っているわけではないですし、彼らと会って話すことといえば現在の自分について。
別に過去の思い出話をしたいと思ったわけではなく、現状の自分がどうなっているのか、当時のぼくを知る人たちに会うことでどんな感情を抱くのか、という好奇心にも似た理由から参加を決めました。
もちろん、幹事として主催してくれた人たちに対する感謝の気持ちを体現するため、というのも大切な理由の一つです。
幹事、というのはすごく大変なもので、企画をしたものの参加人数が大して増えなかったり、ドタバタとキャンセルが相次いで開催を危ぶんだり...
普段の仕事や生活を抱える中で、そんなことを考えながら準備をしなければならないので、無事に当日を迎え終わるまでは気が気ではない人も少なくないと思います。
今回の同窓会も100人単位での開催となり、我が中学校は36名程度の編成で8クラスでしたから、同窓生は290名弱だったわけなので、3割を超える参加率。
3割って聞くと「そんなもんか」みたいなものかもしれませんが、100人を超えるイベントだと考えたら立派なものです。
人を集めるというのは大変で、それぞれ別々に進む時間を一堂に集めようとすることであり、その大変さを参加者は特に意識はしません。当然と言えば当然ですが。
そんなこともあり、幹事が頑張ってくれるのであれば、それに報いる行動をとりたいな、と思って参加をした、というわけです。
参加をすることの意義として、ぼくは彼らに会い何を得たかったのか。何を得るために会に参加したのか。
それは「自分がどんな人生を送ってきたのか」といった自分歴の再確認でした。
参加している同窓生たちと話す内容といえば、「どんな仕事をしているのか」「結婚はしているのか」「子どもは」といった自分のhistoryを共有することと、相手のhistoryを共有してもらうこと。
まず自分の人生を振り返り、相手の人生を聞くことで、長い間流れていて、共有されることのなかった時間を共有しようと試みるわけですが、長い時間を共有されていなかったわけなので、簡単には説明しきれません。
話す数が多くなればなるほど、人数をこなしていけばいくほど、話す内容が洗練されていきますが、その時点でタイムアウト。
長い時間を埋めるために作業を終え、現在のことやこれからのことを話す時間にたどり着きそうになると、お互いに別の人間が現れ、それぞれに「自分歴の共有」を始めることに。
そういう場であり、それをする場ということです。
ここ最近、同窓生と会った記事を書いたのですが、彼らと会い文章に起こすことの目的も彼らの人生に対する追体験だったのかもしれません。
時間が限られている中で、何をどこまで話すのかを決めるのはすごくハードルの高いコミュニケーションスキルな訳です。
そういう意味では、過去に色々と考えながら書いてきたことで、スラスラと出てきて話ができたようにも思います。
ただ、こんな風に少し自分以外について、環境や状況といった者に対し、どう対峙すべきなのか、ということを話す機会が作れなかったこと。そこまで深く入り込むことができなかったことに少し残念な気持ちもあります。
時間が限られている中で、優先順位を決めるということではないのですが、勝手に居心地の良さそうな場所と人とを選んで行動してしまったのではないかと反省もしています。
何度か目があったり、相手のことをきちんと認識していたにも関わらず、時間の共有をできずに終わってしまった人も中にはいます。
できなかったとしてもなんら変わりはありません。これまで通りに時間は過ぎていきますし、過ごせます。
ただ「気になった」にも関わらず「行動しなかった」という自分を否定したい気持ちになるのです。
それでも、良い場所を提供してくれた幹事の方々には改めて感謝申し上げます。
ありがとうございました。