武装少女とステップ気候

9.海を知らぬ少女の前に麦藁帽の我は (1)

 ステップ気候は雨季でした。空から落ちる雨粒は急速に冷却されて、結晶となり、柔らかな太陽の光を乱反射させて雪になりました。
 色を失くした世界で、少女は煙の昇る拳銃を構えていました。
 アノニマと呼ばれた少女は、瞳孔がきゅうう、とピントを合わせるのが分かって、倒れた男を見やりました。それはヨーイチ・ハルノ=ホセアと呼んでいた男の肉体でした。そしてそれはぴくりとも動かず、仰向けになって、間違いなく心臓を貫いた銃弾の風穴の開いた、赤茶けたメキシカン・ポンチョを、吹雪にいたずらに揺らしているのでした。
 少女は銃口を外しました。黒色火薬でも無いのに煙が風になびいて消えました。火薬は燃焼し高い温度を持ち、水分は湯気となって、白いけむりと立ち現われてそして霧散するのでした。
 それが彼女には信じられませんでした。彼を撃ってしまったという事実、そして彼が再び起き上がることはないのだという事実。だけど右腕は回転式拳銃『平和製造機』(ピースメイカー)の重みがあって、また反動(リコイル)を受けとめた筋肉の痺れも、まだ残っていました。
 過去とは原理的に言って現在の瞬間の積み重ねであり、それが連続する事でアニメーションして時間は流れているように思える。写真は切り取られた今の瞬間であり、ゆえに、未来は白紙であり、現在を規定する事で過去と未来が生まれる。だからこそ彼女は思いました。取り返しの付かない事をした。いいえ。私は取り返しの付かない事を、し続けてきた。そうして今も全く同じように。
 風に煽られて、現像された写真が何枚か、ひらひらと蝶のようにはためきました。それはその男の人生の軌跡でもありました。彼はまっちろな雪の上に大の字になって、両手を広げており、その口元にはそれまでの彼の人生と全く同じように、ニヤニヤした笑みが、寒さに凍りついているのでした。

 外国の若い青年たちが、冬の寒空の下で集っていました。まっちろな砂漠に暗い影を落としつつ、それらは新自由主義のもたらした、自己責任による、自殺行為ともテロリズムとも呼べる、すなわち義勇兵でした。その中でイギリス訛りの男が言いました。
「いいかぁ、情報によれば、奴はこの近辺に潜んでいる。黒髪の、浅黒い肌をした、ヤズディ教徒の餓鬼だ。奴で無くとも構わん! 異教徒どもを、テッテ的に狩り出すぞ!」
神は偉大なり(アッラーフ・アクバル)! と大衆が叫んで黒旗を掲げました。その黒旗には『アッラーの他に神はなし』と書かれており、その他の『イスラム国民』たちは中国製の56式自動歩槍や、アメリカから払い下げられたコルト社製のAR15ライフルなどを握り締めていました。
 曇り空の夜の空を、一本の火矢がゆったりと軌跡を描いて飛んできました。それは鏑矢として、また曳光弾として、集団に対する宣戦布告として、音を割いて弾薬箱に的中しました。
「――敵だ!」
葦の矢は音もなく、火矢の軌道をなぞるようにして、矢継ぎ早に放たれました。その鏃(やじり)には狼の毒(トリカブト)が塗布されていて――矢傷を受けて斃れた兵隊たちは顔を附子(ぶす)にしてもがき苦しみ息絶えました。
 実戦経験の浅い、リクルートされた新兵たちは、簡単にパニックに陥りました。ほうぼうに銃弾を乱射して、それが当たって味方を殺しました。向こうからも回転数の速い三〇口径シュパーギン短機関銃の散発的な連射があって、部隊長は、取り乱した新兵をスターリング短機関銃で射殺すると、銃を掲げて叫びました。
「慌てるな! 奴は独りだ。我らは複数。何も畏れをなすことはない! 神がお望みならば(インシャラー)、悪魔崇拝者(カーフィル)に死を! 神のご加護あれ(ビスミラー)!」
アッラーフ・アクバル! と一斉に唱えだして、その場は統率されました。人々はそうやって言葉(カリマ)を、言葉の持つ意味を殺しました。いっぽう申し合わせたように向こうからの銃撃も止みました。彼らは前進を始めました。少なくとも、彼ら自身は前に進んでいるのだと思っているのでした。砂漠から続く森の奥は闇の奥となり虚ろな人々はその軍靴を鳴らしはじめました。伝統的なイスラムの黒旗だけが、淋しそうに地面に打ち捨てられていました。

 白髪の山はしん、と静まり返っていました。かつてエデンの園とも呼ばれたその森はほんのり白く雪化粧して、白ウサギは、砲火に驚いたように穴倉に隠れました。
 じゃり、と音をしてブーツが凍った土を踏みました。まだ近くに潜んでいるはずだ。と呟くと部隊は散開して、じっとりと辺りを捜索しはじめました。
 彼ら、すなわち先進国の若者にとって、過去とは後悔の集積であり、持ち得なかった青春の残滓、未来は過去と同義であり、それは、過去の悔やみを如何に改変してゆくか、解釈し直し脱構築するか、にかかっているのみであるからです。
 足跡を見つけました。それは途中から馬の蹄の跡になって、部隊はそれを導にして少女を追走しました。血気盛んに盲目的に、自分の人生を取り戻すために。だから仕掛けられたワイヤートラップとその先の地雷とに気付きませんでした。跳躍地雷(バウンシング・ベティ)は一瞬遅れて背丈ほども跳び上がり、あちこちに榴散弾をばら撒きました。
(願っている事、信じている事、考えている事、すなわち個人幻想――は、実現しない。何故なら物語の言葉とは常に肉体の軌跡であり過去形で表わされるだけだから)
 言葉は狭く薄暗い頭蓋骨の内部で反響(こだま)して、アノニマは、頭痛を覚えて手綱を引きました。それから深く呼吸をしました。それはシステマの呼吸法で、つまり痛みを常態とする。痛みを除去するのでなく、在るものとして受け入れる。現実が抑圧であるなら物語はその反発である。銃を撃てば、その分の反動(リコイル)が返ってくる。何事であろうと為された事象には、則ち、その波紋を産む。七つの妹が十三の兄に強姦されて産まれた赤子をその腕に抱いて、裸足で、雪の積もる道をとぼとぼと歩いていました。アノニマは馬を歩かせながら横切って振り返らず、シュパーギン短機関銃『バラライカ』のドラム弾倉を再装填しました。エンジンの音が響いてきました。
 小さな母親がトヨタに轢かれて動かない肉にされたあと、アノニマは振り返りながら『バラライカ』の七十一発を奏でました。車はフロントガラスを割られ銃弾はタイヤを貫いて、木にぶつかって横転しました。何人かがトラックから降りてウジ短機関銃を撃ちました。弾丸は通り抜けるのか当たらないのか、明後日の方向に飛び去って未来の可能性を殺しました。赤ん坊は泣きませんでした。砂漠地帯の水は貴重であり、泣いたって誰も助けてくれないのは、明らかだったからです。ハルピュイアが空からクスクス笑っていました。
 狼の軍団が、死体の匂いを嗅ぎ付けて集まりました。それはしばらくアノニマと対峙しましたが、やがて和解したように――彼女の匂いの為でしょうか――彼女を横切って、背後から迫る黒装束たちを追いました。それらは本当に存在していたのか、それとも彼女を開拓者(ウプウアウト)や灰色の狼(アシナ)と見做した千疋狼であったのか。いずれにしろ、森に生い茂る木の上では、山羊が生っていました。それらは下の喧騒を無視するようにか或いは単に降りられないだけだったのか、ゆったりと、木の葉を食んでいました。
 アノニマは夢を見ているのだと思いました。彼女の神経系は毒に犯され、現実の何もかもが曖昧で、幻覚が入り混じり、実際、自分を追ってきている集団の事も、自分がいま手にしている小銃を拾った経緯すらも、よく覚えていませんでした。彼女の記憶は、認識は、幻想は、磨り減ったカセットテープを再生しては上書きし続けるみたいに、修復不可能に壊れていました。
 それでも私は海を見に行くんだ。と、アノニマは頭のなかで嘯いてみました。昔、まだ幼かった頃、お姉さんの言葉(カリマ)と一緒に隠れん坊をして遊んだ思い出が再生されてきました。顔を両手で覆って、眼をつぶり、自分は数を数えていました。
「いち、に、さん、し(アン・ドゥ・トロワ・カトル)。ご、ろく、しち(サンク・スィス・セット)。はち、く、じゅう(ユィット・ヌフ・ディス)……」
そうして眼を開きました。お姉さんを探しに、村中あちこち駆け巡りました。でもお姉さんは見つかりませんでした。もうどこにも居ませんでした。彼女は死んでしまったのですから。
(お姉ちゃんは お母さんが嫌いだったんだって
 なんだかとっても 怖い思いをしたみたい
 良妻賢母になる為の 女子割礼(ハテーナ)の儀と聞いたけど
 剃刀で 子供の部分を切り落すんだってさ
 そうしないと 女は穢れたままなんだ、って……)
空は透き通って青くて自分の手には存在しない機関銃。その銃声だけが響いて振動となって残りやがて霧散しました。銃は言葉の次元には存在しておらず物理的に破壊するしか能がないのでした。我々はその単純な答えに気付くまでに、あまりにも人を殺し過ぎた。
(お前が信じているお前の悲劇の物語も、ただの妄想に過ぎないとしたら? お前が思い出せる限りの自分の思い出も――知らないうちに改変されたものであったとしたら? でもそれらを可能な限り全て否定してみると、自分は確かに空っぽなのでした)
 アノニマは言葉に詰まりました。それは、クルドの言葉が既に自分の中からほとんど失われ、あらゆる外国の言葉が彼女を支配し、――長く外国に居過ぎたからだ。と彼女は思いました。ヤズィードの教えはその意味で合っており、外の人間と長く接触しすぎると、自分たちの領分が失われていく、という点があるものです。アノニマは、自分が外部から愛されていた(アフェクション)のだと知りました。それは他者からの影響を受け(アフェクティッド)、自らの素朴さ・純粋さ(アンアフェクティッド)を失った状態であり、人は自分の、自分を守る言葉を失くしたときに、初めて歩み寄る事が出来る。自分本位の独善的な愛が存在しえないように。存在しては、ならないように。
(ねぇ、ゾーイ。君は僕と違って、愛を信じることが出来るかい? 僕は出来なかった。愛された事なんて、なかったから。利用ばかり、されてきたから。――ねぇ、どうして他人は他人を愛する事が出来るのかな? 僕たちにも、それは出来るんだろうか? 出来たんだろうか?)
子宮内膜が剥がれ落ちる痛みを覚えました。失くした左手の薬指も痛みました。受精卵は愛の結晶であり月経は、生まれなかった子供たちの怨みのものであり、わたしは、無為に、空っぽに生きている。交流・対話(コミュニケーション)を拒絶している。自分の領分を守るために殺している。自衛の為とはよく言ったもので、わたしが、長々と続けてきたこの物語も、自己認識も幻想も、自らを守るための武装であると。それが犯され覆されるのを、なにより畏れているのだと。自分と他人との区別を付ける事が難しいために、……それを優しさと呼ぶのは早計にしても、拒絶することでしか自分自身を保存できない。他者からの影響が自分を侵してゆくのだと、分離主義者は空想している。国家や民族、自己というものもまた、そうやって言語・論理(ロゴス)で武装され形作られてゆく。その点で、わたしもまた、彼ら原理主義者やテロリストたちと同類である。――すなわち、言葉によって形成された幻想を生きる人間どもの一人である。という一点において……。
 そして。たとえ、そうであろうと、血と痛みだけは本物でした。右腕の内側に包帯で隠された自傷痕と経血、それから幻肢痛。あらゆる欲望を抑え込む為の自らとの戦い(ジハード)。失くした左腕は高価で物々しい筋電義手によって補填され、かすり傷も胸の痛みも、いまここで自分が生きているのだと錯覚させるには、充分でした。
 気付けば、追手を振り切っていました。葦毛の蒼褪めた馬も、ヒィヒィ息を荒くしました。アノニマは失くした冷たい左手で馬を撫ぜてやりました。名前の無い馬は、ちっとも嬉しくないようでした。
 間抜けなロバの足音が近付いてきました。――アノニマ。彼女をそう呼ぶ、懐かしい声はありませんでした。一人ぼっちの軍隊(シングル・アクション・アーミー)は『平和製造機(ピースメイカー)』を抜いて彼に向けました。それから、眠れない眼でギロリと睨みつけて、
「――来るな!」
そう叫びました。数多の雪の結晶は、黙って二人の間を通り抜け、地面に落ちてゆきました。降り積もった雪は地面を覆い隠して、しばらく溶ける気配はありませんでした。

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