7.九月十一日に生まれて (3)
少し狭い部屋の中に、腰だめに構えられた銃剣が鈍く輝いていました。ゾーイは足音を立てないように、片足の踵から体重を乗せ、ゆっくりと膝から抜くように、重心を移動させながら歩いていました。洞穴には蝋燭の火が燃えていました。
ふと、軽い銃声が一発、響きました。それから人の倒れる音がしました。ゾーイは素早くそちらに振り向き、そして息を殺しました。狼犬もそれに倣いました。
男がひとり、撃たれた膝をついて女を見上げており、彼女は、そしてチェコ製機関拳銃『スコーピオン』を額に向けると、そのままそこに小さな穴を開けました。空薬莢の転がる音だけが残りました。
――サキーネ。とゾーイは思い出していました。アポロ直属のミューズのひとり。亡国(ユーゴスラヴィア)のボシュニャク人、フォチャの虐殺を生き延びた――その役割は、部隊内の「平和」を保つこと、すなわち、『唯一絶対の単純な掟:部隊内における暴力の禁止』を破ったものに、制裁を与えるものでした。それは、狐のお面を被った黒く短い髪の少女で、左腕には虹色の蝶の刺青をし、黒い地下足袋を履いて、右手には『スコーピオン』機関拳銃、左手には短い直刀の、ダマスクス鋼で出来た忍者刀を逆手に握っていました。
ゾーイは『リー・エンフィールド』小銃をサキーネに向け、一発撃ちました。音をも切り裂く弾丸は、一瞬遅れて彼女の真横の壁に跳弾しました――それは彼女が刀で弾いたからです。と同時に、サキーネはゾーイとの距離を一気に詰めました。ゾーイは『リー・エンフィールド』のボルトを操作して次弾を装填する途中でしたが、紙一重でサキーネの逆袈裟を躱しました――否。斬撃を防御しようと構えた銃剣付きの小銃を、日本刀で真っ二つにされました。ゾーイは鉄屑になったそれを捨てながら、逆袈裟から身を回転させつつ放たれる横薙ぎを、バックステップで避けながら、胸から三日月型のカランビット・ナイフを抜きました。
狐のお面の口元が笑っていました。蝋燭の火も揺れていました。サキーネは軽く踏み込むと、『スコーピオン』機関拳銃を殴りつけるようにしてその銃口を向けました。ゾーイはナイフでそれを銃口の向かないように凌いで、耳元で数発の銃声が響いたあと、右手の掌底で機関拳銃を弾き飛ばしました。それと同時に、肘の内側にナイフの刃のカーブを沿わせて相手の腕を巻き取ろうとしましたが、サキーネはその流れを殺さないように、そのまま回転しながら左手の日本刀で上段を薙ぎました。ゾーイはそれを倒れ込みながら避けて、同時に勢いを乗せて足払いを繰り出して、転んだ彼女にナイフを突き下ろしましたが、起きあがりながらのサマーソルト・キックを受けて、ゾーイは仰け反って後ろに倒れました。その間に脇のホルスターから、自動拳銃『武装した人』を抜きました。
ゾーイは仰向けに床に転がりながら、ゆったりと近付くサキーネに何発か拳銃を発砲しましたが、すべて刀で弾かれてしまうのでした。それは銃弾が見えているというよりも、銃口の向く先に正確に刀身が吸い寄せられるからであり、銃弾は斜めに弾かれて壁に着弾するのでした。ゾーイは銃口を外さないまま立て膝の状態に戻り、再び拳銃を連射しました。抑音器で抑えられた低い銃声と、真鍮製の薬莢が転がる音、それから弾かれる銃弾が壁で潰れる音だけが響き、九発の弾倉を撃ちきってスライドが後退したまま停止しました。
サキーネは歩みを速めながら、骸骨の壁を蹴って三角飛びしながら、刺突するように刀を両手で構えゾーイに飛びかかってきました。すると、その真横から不意を突くように狼犬が彼女に飛びかかりました。サキーネはそのまま彼に床に押し倒されましたが、ゾーイはその隙に拳銃の弾倉を交換すると、床を舐めるように転がりながら、弾き落とした『スコーピオン』機関拳銃を掴みました。サキーネは左手で狼犬が喉笛を噛み千切ろうとするのをかわしながら、カイデックス製のシースからT字のプッシュダガーを抜いて、狼犬の胴体に刺さろうかとしましたが、直前にゾーイが口笛を短く吹いて、彼は彼女から飛び退きました。そしてゾーイは『武装した人』と『スコーピオン』とを両手に構えて、撃ちました。
転がりながら、サキーネが銃撃を「避け」ました。それから壁に身を隠すと、背中に吊り下げていた銃剣付きの『トレンチガン』散弾銃をあっという間に組み立てました。排莢口から十二番ゲージの散弾をひとつ入れ、チューブ弾倉に五発の弾薬を装填すると、それを壁際から銃だけ出すようにして、引き金を引きっぱなしにしてフォアエンドを前後させるスラムファイアをしました。
ゾーイも同じように障害物に身を隠しました。そして真上に飛んだ『スコーピオン』の空薬莢が頭にカランコロンと当たって、それから気付きました。ゾーイはサキーネの散弾銃の撃鉄が落ちる金属音を聞くと、弾倉の空になった『スコーピオン』機関拳銃を二人の間に放りました。機関拳銃はがしゃりと音を立てて、しばらく床を滑りましたがやがて摩擦からその動きを止めました。
ゾーイは左腰から『雌ロバの片脚(エンプーサ)』と呼ぶ散弾銃をサーベルのように抜くと、口笛を吹いて真横に狼犬を飛び出させました。サキーネはそれを狙う為に少し障害物から身を乗り出し、排莢口に散弾を入れようとするところで、それをゾーイは逃さず、『雌ロバの片脚』で撃ちました。散弾はすばやく飛散してサキーネの狐のお面を割りました。その下から現れた少女の顔は、ケロイド状に焼けただれ、人の怨みだけで出来ているようでした。
顔を晒され、逆上したサキーネは、弾倉の空になった『トレンチガン』を右手に、日本刀を左手に、言語以前の叫び声を上げながら、物陰から飛び出し突っ込んできました。ゾーイはあくまで冷静に散弾銃を撃ちました。飛来する九つの散弾のうち、いくつかは刀身によって弾かれましたが、それでも防ぎきれずにもろに散弾を喰らったサキーネは、しかし勢いを止めることなく、『トレンチガン』で銃剣突撃を敢行し続けました。ゾーイは続けて散弾銃を撃ちました。
赤い肉が削がれ、白い骨が見えても、サキーネは勢いを止めませんでした。短い黒髪が風も無いのに揺れました。サキーネは、銃剣を突き出しました。それは、すんでのところで、ゾーイには届きませんでした。サキーネは「ふん」と少し笑ったようにして、そのまま仰向けに倒れました。日本刀が音を立てて床に落ちました。
呼吸を、していました。空間には三つの呼吸がありました。ひとつはゾーイのもの、もうひとつは狼犬カマルのもの、それから、これから止まるであろう瀕死の平和(サキーネ)の呼吸でした。ゾーイがゆっくり近付いて、銃剣の付いた『トレンチガン』散弾銃を取り上げると、それを躊躇いなくサキーネの水月のあたりに突き立てました。そして、それを捻って抜こうとすると、サキーネが銃剣を掴んで、そして血を吐きながら、こう呟き始めました。
「……我々は……世界から隔離されながら……同時に世界に同化する事を強いられてきた……そうだろう、ゾーイ……? 我々は……『愛されなかった望まれなかった選ばれなかった子供たち』……」
「いつまで子供で居る気だ、サキーネ。愛されないなら、愛せばいい。望まれないなら、望めばいい。選ばれないなら、選べばいい。――そして、殺されたくないなら、殺せ。お前の大好きなアポロも、そう言っていた」
ゾーイがそう答えると、サキーネはすこし自嘲気味に笑って、
「……優しいんだな、ゾーイ……いや、それとも残酷なのか……? ……ふふふ……見返りのない行動……徒労……失わないための……身を守るための……自分勝手な妄想、幻想、都合のいい正しさ……エゴイズム……その苦しさ、虚しさ……我々は……強くなくては、生きてゆけない……お前の、ように……」するとサキーネはゾーイにその骸骨の唇で口づけしようとしました。ゾーイは静かにそれを拒否しました。
「――愛は、平等じゃない。だが死は平等だ」
「……愛されてみたかったよ……私もまだ……――でも、もう……」
平和(サキーネ)がそう言いました。けもの(ゾーイ)は彼女の涙の零れたままのその眼を永遠に閉じてやりました。銃剣を捻って抜いて、ゾーイは落ちた日本刀を鞘と一緒に拾うと、それをベルトの背中に差しました。ゾーイはまだ先へと進まなくてはならないからです。
――平和という幻想は死にました。さて、すると、愛という幻想は、果たしてどうでしょうか?
サキーネの『トレンチガン』に十二番ゲージの散弾を込めながら、ゾーイは薄暗い人骨で出来た洞穴を進んでいました。ランプはときどき点在していて、それは燃える空気(フロギストン)の存在する証左でもありました。少女と狼犬は呼吸をしていました。洞穴では息が詰まるような心持ちがしましたが、それは実際に空気の出入り口がないからです。
どん、とゾーイは何かにぶつかりました。それは、いたずらにでかい図体をしていて、アポロの宇宙飛行士の宇宙服みたいな防弾・対爆スーツで、ヘルメットの前面には「平等な愛、すなわち死を与える」と書かれてありました。のろまな彼はゾーイがぶつかったのにも気付かなかったふうで、その手には火炎放射器が握られていました。ゾーイは飛び退きながら、『トレンチガン』で引き金を引きながらフォアエンドを前後させるスラムファイアで、五発の弾倉を彼に向けて至近距離から乱射しました。――無駄でした。その宇宙服の防備は完全無欠で、銃弾も刃物も、ABC兵器でさえも、その防壁を突破するのは不可能のように思えました。
ゾーイは『トレンチガン』を再装填しようとポーチに手を突っ込みましたが、散弾は既に全て撃ち尽くしてしまった事を知りました。ゾーイは『トレンチガン』を棄てると、背中から『クリンコフ』短機関銃を取り出して、セレクターを全自動(フルオート)に切り替え初弾を装填すると、宇宙服に向けて引き金を絞り続け、全弾を喰らわせました。それでもやっぱり無駄でした。彼は銃声からようやく自分が撃たれたことに気付いたようで、のっそりと、大きな亀が歩きだすように、火炎放射器の先端を音の方向に向けました。そして、引き金を絞ると、ねばっこい燃料がびゅるりと飛び出して、そしてそれが一気に燃え上がりました。ゾーイはもろに火を被りましたが、燃えたのは軍用ポンチョだけで、それを脱ぎ捨てると素早く身を隠しました。
彼は名前を愛(ワドドゥ)と呼ばれていました。とゾーイは知っていました。アポロ直属のミューズのもう一人で、ソマリアはモガディッシュ生まれのキリスト教徒。アポロが面白がって、「平和は対話である、愛は沈黙である」と嘯き、ワドドゥとサキーネとを互いに殺させあったりしたのを、覚えていました。そのとき彼の声帯がサキーネの日本刀で切られた事も、またワドドゥの火炎放射器がサキーネを酷い火傷にした事も思い出していて、それに、「愛は盲目」と言いますから、アポロが彼の両目を潰したことも、覚えていました。それでも彼がアポロに従うのは、きっと彼が自罰的な人間で、誰かに怒られるのが、嬉しかったからでしょう。
――カマル! 先に行け! と、ゾーイは狼犬に叫びました。カマルと呼ばれた狼犬はワン! と答えて、洞穴の奥の方へと駆けてゆきました。ワドドゥはそれに気付きましたが、素早い狼犬を殺すには彼の動きはあまりにも鈍重で、たぶん、気持ちはそっちに向かっていたのですが、まぁ、いいや。と彼も諦めたことでしょう。
一帯は随分炎上していました。問題は炎それ自身よりも、むしろ酸素でした。ゾーイは床の上に溜まる酸素を吸うために低い姿勢になりながら、『クリンコフ』短機関銃の弾倉を交換しました。それから、日本の剣術のように、しゃがんだ状態で片足を伸ばし、もう片方の脚を曲げて屈むように姿勢を低くする変形伏射(モディファイド・プローン)の姿勢で、銃を構えました。それから撃ちました。狙いは二箇所で、背中から伸びる火炎放射器のホースないし酸素ボンベから伸びるホースのどちらか、でした。でも、ほとんど無駄でした。それは酸素の足りない空間で、ゾーイが頭痛を感じ、狙いがあやふやになっている、というのもありましたが、ワドドゥの宇宙服めいた防弾・対爆スーツは、全ての攻撃を包容し、そして受容するのでした。
〈――……右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ……――〉
ゾーイは呟きました。射撃した場所から這うように逃げながら、土嚢に隠れつつ、正面からでは効き目が無いと見えて、痛む頭でゾーイは思考しました。ワドドゥは音を頼りに、最後に銃声のした方向に、再び火炎放射をしました。炎は酸素を消費し続けます。――素早く決着をつけなくてはならない、と、ゾーイは結論を出しました。『クリンコフ』に七十五連発のドラム弾倉を装着しました。
しばらく、シクシクと炎の燃える音だけがしていました。声帯の無い盲のワドドゥは黙っていました。火炎放射器の燃料にも限りがあるし、酸素ボンベもまぁ、ある程度は大丈夫だろうけど。撃たれるのは、衝撃があってびっくりするなぁ。と、彼は思いました。そう思っていたら再び撃たれました。今度の銃声は全くの一続きになっていて、それはたったの六秒間だけ、どがががが、という打楽器のソロによって奏でられる音楽でした。そして銃声が止みました。ワドドゥはのっそりと、銃声のした方向に火炎放射器を向けました。そして引き金を絞りました。びゅるりと、ねばっこい液体が放出されて、それが一気に燃え上がり、『クリンコフ』短機関銃は熱によって融解しました。辺りは再び静寂に包まれました。
死んだかな? とワドドゥは思いました。それにしても、いったい誰だったんだろう、とも思いました。それから、ああ、ひょっとして、ゾーイかな。周りがそんなふうに騒いでいた気がする、懐かしいな。アポロも、嬉しそうにしてたっけ。と、考えていると、後ろでカツン、カツンという小さな衝撃が何回かあって、それから、ぶわっと何かが広がる感覚がありました。ワドドゥは、なんだろう? と思いましたが、それきりで、あとはただ、シクシクと炎が燃える音がするだけでした。だから彼は再び黙りました。
ゾーイは、銃口に抑音器(サプレッサー)の付けられたフランス製の自動拳銃、『武装した人(ジャンダルム)』を変形伏射の姿勢で構えながら、火炎放射器の燃料タンクと酸素ボンベによって、一気に炎上する彼を、その背後から見ていました。鎔けた『クリンコフ』は土嚢にワイヤーで固定されていて、引き金も絞られ続けるようにワイヤーが巻きついてありました。ゾーイはそこから六秒間の間に、伏せながら横に転がって一気にワドドゥの背後に周り、抑制された銃声を響かせながら、拳銃で燃料タンクと酸素ボンベとを撃ち抜いたのでした。ワドドゥにはその低い銃声が聞こえなかったのでした。ゾーイは『武装した人』に九発の弾倉――それが最後の弾倉でした――を装填すると、酸欠で痛む頭を抱えながら、よろよろと、そのまま奥へと進んでゆきました。ゾーイは、〈――カマル、〉とだけ、小さく呟きました。
ワドドゥは、なんだか息苦しいな、とだけ思いました。それから再び、今までの暗闇の孤独のなかで、ずっとそうしてきたように、鳴らない声帯で、届かない歌声で、『花はどこへ行った?』の鼻歌を唄いつづけました。そして静かに窒息しながら彼は、自分の心臓(ハート)が、最期までトクン、トクンと脈打ってるのに、ずっとずっと耳を傾け続けるのでした。――音は、光より早くありました。そして光より後にあるのも、やはり、音だったのです。
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