7.九月十一日に生まれて (5)
アポロが先に拳銃を抜きました。いいえ。正確にはゾーイが先にアポロに拳銃を抜かせました。アポロが『パラベラム・ピストル』の銃口をゾーイに向けるより早く、彼女は右腿の『ピースメイカー』の撃鉄を起こしながら、腰に拳銃を構えて彼の右腕を狙いそして、撃ちました。銃声は部屋中に響き正確にその右腕を撃ち抜きました。アポロは拳銃を取り落としました。ゾーイは続け様に、躊躇うことなく彼の左膝を撃ち、左手で撃鉄を煽るようにしながら、その右膝を左腕を、そしてピースマークのペンダント越しにその心臓(ハート)を、撃ち抜きました。アポロは黙って両膝をつきました。ゾーイは、その口元に薄ら笑いを浮かべて、右腕から伸びる『ピースメイカー』の銃口を、真っ直ぐとアポロのガスマスクの額に向けて、そして撃鉄を起こしました。すると、アポロが言いました。
「ゾーイ、君のこの先の人生に、幸多からん事を。――ピース」
アポロがVサインをゾーイにつくってみせて、ゾーイは引き金を絞りました。撃鉄は落ちて、アポロの頭を撃ち抜きました。そのまま彼は仰向けに吹っ飛んで倒れました。ゾーイはまだ硝煙の昇る拳銃を構えたまま、半ば呆然としていました。響いた銃声はこだまになって、洞穴じゅうに反響していましたが、一秒か一分かそれとも一時間か、やがて、それも静まりました。
ゾーイは、ふうううう、と肺に溜まった息を長く吐くと、やがて拳銃を下ろしました。膝が笑っていました。右手も震えていました。なんだかめまいがするようで、しかしその胸には湧き上がる感情がありました。――それは、解放、でした。
ゾーイは拳銃をホルスターに仕舞って、狼犬のカマルに駆け寄ると、撃ち込まれた麻酔弾を抜いてやりました。少しすれば目を覚ますだろう、と思いました。ふと思い出したように痛む頭を抑えながら、ゾーイは、アポロの『パラベラム・ピストル』を取り上げると、尺取虫のような遊底(トグル)を引きました。すると、それは、弾切れを示すホールドオープンがかかりました。
ゾーイは、戸惑いました。薬室を、そして弾倉を外し何度も何度も確かめました。――弾倉の中は空っぽでした。その銃には一発も、殺意のこもった弾丸なんて、込められていないのでした。
嫌な汗が、噴き出していました。頭の中では、ずっと『花はどこへ行った? 花はどこへ行った?』『いつになったら分かるんだろう』という歌詞が、延々とループしていました。
ゾーイは震える手で、ナチスドイツ製『パラベラム・ピストル』とその予備弾倉を、フランス製自動拳銃のホルスターにしまうと、ゆっくりと、アポロの首周りの赤いバンダナを外し、ガスマスクに手を伸ばしました。
彼のマスクを、外しました。するとやはりその中も空っぽでした。一輪の紅い狐花(リコリス)が、彼の身体の中で、人の怨みを吸っているように、紅く狂い咲いており、そしてその肉体は、白い水仙の花(ナルシス)だけで出来ているのでした。
玉のような脂汗が、落ちて床に染みを作りました。頭痛が酷くなってきました。めまいが、する。何かが、おかしい。そうゾーイは思いました。思うと、急に何か込み上げるものがあって、ゾーイは嘔吐しました。それは完璧という名の菓子(パフェ)のクリームが、胃酸によって変質したものでした。目の前の吐瀉物から、ふと見上げました。アポロを貫通した銃弾が、タンクに被弾していました。それは、
(――サリン?!)
と、思いました。ゾーイは震える腕で、鞄からアトロピンの注射器(シリンジ)を取り出すと、それを打ちました。それから、額に穴のあいたアポロのガスマスクを付けました。それにどのくらい効果があるかは、分かりませんでしたが。ともかくゾーイはまだ目覚めないカマルを抱いて、震える脚で、その部屋を出ました。すると、計算されたように、時限爆弾がちょうど、その部屋全体を、――サーバーや全ての情報を隠滅するように――爆破しました。ゾーイは爆風に煽られて転び乳歯を何本か折りました。それでガスマスクも壊れました。それでも歯を食いしばって立ち上がりました。頭を打ったのか、神経ガスの幻覚作用か分かりませんが、ゾーイの耳元で彼の囁く声が聞こえました。
(英雄没落論、って知ってるかい? ナポレオンの話なんだけどね。彼は、皇帝になって様々な法を作った。そして後年、彼自身がその法によって追放された。そのことによって、立法者が独善のために法を作ったのではない、と証明されたのさ。要は、そういうこと。僕は、僕の作った君に殺される事で、僕の、そして僕のやっている事の正しさが、証明されるってワケ。――おめでとう、ゾーイ! 世界崩壊のきっかけは、君自身の正当な行動によるものだよ)
「…………」
火が、燃え上がっていました。どれくらい歩いたかも、判然としませんでした。少女はときどき咳き込みながら、歪む視界をまばたきしながら、ふらふらと納骨堂の、人骨で出来た壁を伝いながら、狼犬を抱いて歩いていました。どこかで、子供が泣いている声がしました。狼犬も少しずつ目を覚まし始めました。少女は、一緒に、帰ろう、カマル、と呟きました。狼犬も弱々しくそれに応えました。――根無し草の少女兵士に、帰るところなんてないのですが。だから地面に仕掛けられた透明のワイヤーに、少女は気付きませんでした。ぷつん、と音がしてワイヤーが切れると、その先に括りつけられた散弾銃――少女が棄てたはずの散弾拳銃、『狼のための(ルパラ)』が火を吹いて、少女の左手を吹き飛ばしました。赤い血と肉片が、桜みたいに空を舞いました。少女は小さく叫び声を上げました。だけど立ちどまっている暇なんてありませんでした。手に握っていた、彼の赤いバンダナで乱暴に止血すると、左の内腿に包帯で括りつけたブローニングの三十二口径のスライドを、歯で噛んで装填して、再びふらふらと、出口を求めて彷徨い歩きました。狼犬もふらつきながらも目を覚まし立ち上がったようでした。
火は迫っていました。洞穴内で貴重な酸素を消費させながら、煙はもうもうとたちこめていました。少女はめまいと吐き気を覚えて、跪きました。狼犬もふらふらになりながらも、少女を心配そうに見つめました。少女は自嘲気味に笑って彼にキスすると、壁すなわち人骨にもたれかかって、なんとか立ち上がろうとしました。すると、はじめから今までずっとその時を待っていたかのように、ひとつの骸骨の咥えた手榴弾がころりと落ちて、ぴきんと音を立てその起爆レバーを外しました。
「あ、」
少女はよろめきながら、転がる手榴弾を通路の向こうに投げようと、手を伸ばしましたが、脚がもたれてその場に転びました。目の前に転がる、数秒と経たず爆発するであろう手榴弾を、少女は、永遠とも思える時間の間、眺めることしか出来ませんでした。
――死ぬ?
少女はそう思いました。すると、狼犬のカマルが咄嗟に手榴弾を転がして、それからそれは、爆発して、少女は、口をぽかんと開け、
「あっ、……」
狼犬が榴弾の破片でずたずたになっているのを見て、少女は、彼を抱いて再び立ちあがりました。少女には泣いている時間もありませんでした。そもそも既に涙は涸れているのかもしれませんが。
目の前に光が満ちてきました。それは出口でした。外では雨季でもないのに、嵐が吹いているふうでした。嵐が吹いているようなのに、ワタリガラスの平べったい声が、洞穴の中に響いてくるようでした。そうしていると、カチリ、と足元に固いものがありました。
――地雷を踏んだ。と思いました。それから、もう一歩も動けない。とも、思いました。頭の中では、ハッピーバースデー・トゥ・ユー、ハッピーバースデー・トゥ・ユーという歌声が、ずっとずっと響いていました。少女は目を見開きました。その瞳孔は暗闇なのに狭まっており、顔面は蒼白というよりも蒼褪めていました。
銃声が、ひとつ響きました。外ではウェーブがかった赤毛の女が、硝煙の昇るC96拳銃『魔女の箒の柄(ブルームハンドル)』を構え、立っていました。足元を撃たれたようでした。少女は足元に目線をやりました。そこには地雷なんてありませんでした。それは彼女の妄想でした。だからよろめきながら、再び外に向けて歩きだしました。
――それ。もう、死んでるわ。
彼女の横を通り過ぎようとすると、魔女が言いました。背中の方ではウプウアウトによって放たれたスコルとハティの二匹の犬が、少女を追いかけてきていました。魔女はそれらを撃ち殺しました。嵐の空ではハルピュイアの四姉妹がケラケラ笑っていました。
――置いていきなさい、あなたの過去も、未練も、希望も、ここで、全部。と、魔女が言いました。少女は、いやだ、と答えました。
(月(カマル)が居なくては海に行く意味がない、
月がなくては、海は満ちない。――そうだろう、ペニナ、)
月の犬(マーナガルム)。外の夜は嵐で月が見えませんでした。少女は納骨堂の出口で、失血によるものか、神経ガスによるものか、――それとも単に空腹か。うつ伏せに倒れ込みました。そして世界は暗転しました。それでも音は聞こえますし、右手には確かに拳銃を握っていましたし、冷たい雨は容赦なく打ちつけてくるのが分かりました。
(……亡霊は架空の軸を中心に空回り円を描いているだけ……)
――狼犬はいつものように少女が眠るまで息をしていました。
嵐の夜に、銃声は散発的に響いていました。少女は最悪の気分のまま目を覚ましました。全身は冷え切っていて、頭はがんがんと痛むし、空腹なのに吐き気があり、傍には狼犬の姿がないのでした。少女はそれでも拳銃を片手になんとか立ち上がりました。銃声は自分を撃っているのではないと分かりました。では誰を? と、泥を蹴る馬の駆ける三拍子のリズムが聞こえてきて、
「――アノニマ!」
と、懐かしい声がしました。ヨーイチ、とアノニマと呼ばれた少女は呟きました。遠くではジープが停まっていて、赤毛を三つ編みにした少女とドイツ人の男が、テロリストの残党と小競り合いをしているのが雨粒の向こうに微かに見えました。
ヨーイチは、逃げ出した名前の無い馬を連れて、ロバに跨っていました。アノニマが馬に乗れる様子でないのを悟ると、彼女を雨から庇うように抱きかかえてロバに乗せました。酷く体重が軽いと思いました。それは、実際彼女の装備している銃器の重さくらいしかないのでした。それからヨーイチは、ゴー、ジャック、ゴー! と叫んで走り出し、葦毛の馬もそれについてゆきました。
遠くで、レッドとウェーバーの二人は、ヨーイチがアノニマを回収したのを確認すると、ジープに乗りました。それから機関拳銃で牽制射撃をしながら、嵐の雨の闇に溶けて消えてゆきました。
アノニマは、震える身体を抱きしめられながら、どうして……と、尋ねました。ヨーイチは、お前の馬が逃げ出してきたから、分かったんだよ、地図を作ったのはレッドだしな、と、答えました。アノニマは唇を噛みました。
夜の嵐の雨粒に打たれながら、二人は馬を駆っていました。ヨーイチはその腕に冷たい少女を抱えながら、温めていました。彼女が震えているのを見て、彼は、
「どうしたんだよ、アノニマ」
と、言いました。アノニマは震える唇で言いました。
「――アポロが……影が、アポロが追ってくる」
「ただの、霧だろ」
ヨーイチはそう言いましたが、アノニマには、確かにそれが見えるのでした。そのうえ、アポロの影は口を聞くのでした。
(愛しのゾーイ、僕のとこにおいでよ
一緒に遊ぼう、花の咲いてる平和な世界で
綺麗な衣装で歌と踊りを楽しもう)
だからアノニマは言いました。
「――声が聞こえるんだ。奴の話しかけてくる声が」
「落ち着けって。枯れ木が、嵐に唸ってるだけだよ」
ヨーイチはそう答えました。ちらりと彼女の顔を覗くと、今まで見た事の無い表情をして、ちいさく震えているのでした。それは恐怖にふるえる小さな子供でしかないのでした。ヨーイチは左右非対称の表情をしました。――ひょっとすると、自分の無力感にうちひしがれていたり、あるいは自分に怒っていたのかもしれませんが。でもそれも全部彼女の妄想でした。
アノニマは、それを見て、不安から気を紛らわせたくなって、
「……うたを……」
小さな声で、しかし確かに呟きました。
「……うたってくれ」
ヨーイチはそう言われて、なんだか面喰らったふうに思いました。
だけど彼は唄いました。彼女のために、他にそうするしかなかったのです。
――そしてそれは、『名前のない馬』という唄でした。
この旅路のはじめ ぼくは沢山のいのちを眺めてたんだ
いろんな花や鳥 それに岩とか物とか
砂や丘の上で 環になって響き合っていた
最初に会ったのは うるさい蝿で
空には雲ひとつなくて 暑くて 地面は乾いてて
でも大気には 色んな音が満ちていた
二日経って 太陽に焦がされ 肌も真っ赤に焼けてきた
三日経って 涸れた川底を眺めるのも 気晴らしにはなったけど
むかしは水が流れていたと思うと なんだか悲しくもなった
名前のない馬に跨って 僕は砂漠を旅してきた
雨が降らないのは心地いいもんだ
砂漠では 自分の名前を忘れるってことはないよ
ここでは誰も 君を苦しめないから
九日経って 馬を放してやった だって砂漠こそが海だったから
いろんな花や鳥 それに岩とか物とか
砂や丘の上で 環になって響き合っていた
砂漠も海で 見た目じゃ分からないけど いのちが宿ってるんだ
都会だって それは同じで こころがあるはずなのに
にんげん達は 誰も愛し合っちゃいないよね
名前のない馬に跨って 僕は砂漠を旅してきた
雨が降らないのは心地いいもんだ
砂漠では 自分の名前を忘れるってことはないよ
ここでは誰も 君を苦しめないから
――雨は降り続いていました。ロバに揺られながら、冷たい身体のアノニマは、彼の歌声を聞きながら、胸の鼓動を振動で感じながら、まるで死んだように眠っていました。それでも確かに、肺は膨らみ、まだ息はしているのでした。
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