光は常に正しく在り その⑥:ハートのかたちpart1
医者から散歩に行くことを禁じられてしまったので、空想の中を散歩している(犬の散歩だけこっそり行ってる、バレないように、バレないように)。
これまでぼくは、面白い人間だと思われたい、みんなに一目置かれたいってことばかり考えていたから、それがどうでもよくなると、途端に言いたいことがなくなってしまった。
なにもすることがないし、特に言うこともないから、せっかくなので、意味のないことをたくさん考えてみる。ぼくの想像の中だから、どこまでも自由に行ける。おろしたてのスニーカーで、心の中のでこぼこ道をひたすら歩いてみる。何にも縛られていない。きっと、いま見えているものがぼくの本当のハートのかたち。
こんな気持ちになることが、この先もうなくても大丈夫なように、その時見えたかたちを記録していってみようと思う。
昔のことを考えると、なぜだがいちばん最初に思い出すのは、本当にささやかで些細なこと。
死ぬほど寒い冬の夜に、夜から明け方まで、ずっとコンビニの前の灰皿越しにあいつと会話したことや、授業をサボってバンド仲間と玉屋にうどんを食べに行ったり、どぶろっくのクソみたいなものまねをしていたこと、海に行ったのに海に入らず、楽しそうに泳ぐ他の仲間たちを一緒に並んで見つめていたこと。そんななんでもない時間が、ぼくにとっては本当に大切だったんだ(こういうものは得てして、だいぶ時間が経った後に、ようやく感じることができるのが、人生のパラドックス)。
その次に思い出すのは悲しかったり、辛かったりすること。裏切ったり、裏切られたり、叶えられなかったり、叶えてもらえなかった約束たち。
おそらく、人生において本当に悲しくて辛いことなんて、1割くらいなもので、とっても楽しかったことは2割くらい、残りはどうってことないささやかなことで構成されていると思っている。んだけど、楽しかったことって、決まって漠然と「楽しかったな」ってことしか思い出せない。
それなのに、悲しかったことは、匂いや温度も比較的鮮明に思い出すことができてしまうのは、ぼくがまだまだ子どもだからなのかな。
生きていけば、悲しいことも嬉しいことも積み上がっていくけど、その分、思い出してしまう悲しいことの比率も大きくなってしまうのかな。
ここ最近、おじいちゃんが失踪したり(もう見つかったけど。やっぱり血は争えないのかもしれない)、親友の家族に大きな変化があったりした。
自分に起きた悲しみは、なんてことはなく上手く処理できるのだけど、大切な誰かに起きた悲しみは、自分の想像力の限界まで肥大させて受け止めてしまうから。それはそれで、そのひとの想いを自分の都合の良いように拡大解釈して、ちゃんと受け止めてないってことだから、とても無礼なことなんだけどさ。それでも、なんとかきみたちの役に立ちたいって思う。相変わらず自分勝手だよね。
でも、もう一度やり直せても、同じことを選んでしまうと思う。出会えたもの、出会えたひとたち、それがなかったことになるくらいなら、ぼくはいまのままが良い。良いことも、いやなことも、この先もちゃんと起こってくれますように。微笑みながら、それらを受け止める勇気を持ち続けられますように。
いつかこんなことも、抗いようもなく忘れていってしまうのかしら。それはそれで、とってもさみしい気持ちになるよな。きっと、忘れてはいないけど思い出すこともできないことで、心の中のクローゼットはいっぱいになっているんだろうね。
伝えたいことはもうあんまりなくなってしまったけれど、「伝えたいようなこと」はたくさんあるんだと思う。
言葉は服を着せることに似ている。生まれてきた気持ちや感情に似合う言葉を選んではみるけど、ぼくは言葉のコーディネートがとっても下手くそだから、いつも、伝えたいようなことと似ている気はするけど、まったく別物な言葉を気持ちに着せてしまう。
上手に使えば、きみのハートのそばまで行けるはずなのに、自分の気持ちになんとか似せようとして、ゴテゴテと着飾らせてしまって、たくさんの言葉で本当の想いを薄めてしまっているんだ。とってもドジだね。
宝石箱みたいに、パカっと脳みそを開いて、想いを直接見せてあげられたら良いのに。「グロいね」って笑ってくれるのかな。
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