卒論をやれって言う老害
これは逆張り意見である。
卒業研究やりたくない奴批判
「卒業研究やりたくないんだが、大学の教授は勘違いを改めろ」とい文章がネットで話題であった。
この記事への反論
以下の反論は各論点に的確に意見を述べているしとても賛同できる。
これらは将来ある論点を潰していないだろうか?
ここでタイトル回収である。
安直に卒論をやれと反論するのは、この新たな価値観がなぜ発生したかを理解しようとせず、自分の考えを押し付ける行為(簡単に言うと老害)になっていないだろうか?
「卒業研究やりたくないんだが、大学の教授は勘違いを改めろ」という考えは、大学の「いい企業へ就職するための手段」と言う側面を多いに反映していると感じる。大学が「学問の場」ではなく「就活のためにみんな行くところ」となってきているという事はよく耳にするし、実際そうなのかもしれない。
その結果が「卒論をやりたくない」という考えではないか?これは、我々が気付き上げてきた結果であり、この考えが出てくるのは必然的な気もする。
しかしながらこれを批判し炎上させる人間が世の中には多くいる(多いかどうかは知らんけど)。僕としては、確かに感覚的におかしいなと思う反面、気持ちはわからんでもない、と言った感想で合った。
「卒論をやれ」という結果は変わらずとも、「卒論をやりたくない」と感じるような高校の進路指や就活制度や社会の空気感を考え直すという方向に行くといいなと思う。
「学歴中心の履歴書から経験中心の履歴書へ」
少し前に以下のネットテレビも話題であった。
この件を要約すると
この件を要約すると、「履歴書に経験を書き、それを尺度に人間性を評価する就職活動方法に変化するといいのでは?」という言う意見をテレビ番組で述べた人がいるというものである。このテレビ番組では他の出演者が、「アメリカでは実際そうなっており、貧富の差の影響がさらに強くなった」という反論を述べ、論破して終わっている。
このテレビ番組の論破をネタに、発言者や意見をバカにするツイートが多く発生し話題となっていた。
本当に発言者を茶化していいのか私には疑問である。
「どちらが正しい」とか言うのは成熟した議論ではない
これらのように、一見間違っているかに思える意見を多くの人が否定する世界は本当に豊かなのか?アテンションエコノミーは本当にこれでいいのか?
このような、現在の感覚とは違う意見をもとに、「過激」「革新的」「根本的に違う」とも思えるラディカルな議論をできる場がネットにあった方が豊かではないか?
ラディカルな議論のためには、一見間違っているかに思える意見でも一旦飲み込み、その先に何があるのか、何が違うと感じるのかをじっくりと考える必要がある。炎上はそこへ悪影響しかしない。
また、突拍子もない意見を得る事は、発言者自体を否定・茶化す行為が散見したり、一気に炎上したりする世界の中ではできないと思う。そのため、SNSでのそう言った行為は減らしていきたい(方法は今の所わからん)。
そもそも、SNSでは議論できない。
これは常に忘れてはならない重要な意識である。
ちょっと何が言いたいか分からなくなって来たが、今回は以上である。この記事が炎上しないことを祈る。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?