第18回① 宇高 彩さん 「将来への迷い」厭わぬ医学生。ラジオで届ける「穏やかさ」
生まれも育ちも北海道。医学生として北海道の地域医療を志すと同時に、「穏やか空間クリエイター」という肩書きでインターネットラジオでも発信活動をしている宇高彩さん。彼女が大切にする「穏やかさ」を軸に、素直な今の気持ちを伺った。
「いい子」から「わたし、宇高彩」へ
「昔から『いい子だね』と言われて育ちました。でも私は、そんな自分を好きになれなかったんです。」
ご自身の活動を楽しそうに話す現在の宇高さんからは想像がつかないが、昔は周囲の期待に応えることに一生懸命だったという。
「中高生の頃は特に、大好きな母の言葉は全て正しいような気がしていました。言われた通りにしておけば間違いないと思っていたし、実際それでうまくいっていたんです。ただ、自分自身にはずっと自信が持てなくて、なぜだろうともやもやしていました。」
良く言えばピュア、悪く言えば世間知らずだったと苦笑いするが、それでも医師になることは自分の意思だった。
「小さい頃から人の役に立ちたいと思っていました。道内では医療が行き届かない地域があると知っていたので、地域に根付いた医師として働きたいと思い、医学部への進学を決めました。」
無事、旭川医科大学に合格した春、偶然目にした「家庭医療学夏期セミナー」のお知らせに出会いを感じたという。
「なんとなく『これだ!』と思って、初めて一人で飛行機に乗って、神奈川県湯河原町のセミナー会場まで行きました。大冒険でしたね。そこで出会った同年代の医学生がすごく大人っぽく、自立して見えたんです。自分の意見を堂々と話し、前のめりに活動する姿を見て、受け身になっていた今までの自分を振り返るきっかけになりました。」
すっかり夏期セミナーの虜になった宇高さんは、次年度から運営側として関わるようになった。
「運営側になると、『宇高彩』としての意見を求められる機会が増えて一段と刺激的でした。少しずつ自分のできることが増えていくのが本当に楽しかったです。」
順調に回を重ね、気づけば重鎮になっていたという宇高さん。大学3年生の夏には、家庭医療学夏期セミナーの実行委員長を務めた。
「それまでの自分の頑張りを自分で認めてあげられたから、実行委員長という大役にひるまず挑戦できたんだと思います。自信がずっと持てなかった私にとって、大きな手応えになりました。自分で選ぶ楽しさと責任を知って、自分を『いい子』の枠にはめていたのは自分自身だったと気づきました。」
「穏やかさ」との出会い
転機となった夏期セミナーの実行委員長を引退した後、宇高さんは音声配信アプリStand.fmで「あやの穏やか空間備忘録」という番組を始めた。
「まず私が穏やかでありたい、そして他の人とも穏やかさを大切に共有できる人になりたいと思い『穏やか空間クリエイター』と名乗るようになりました。その活動として何ができるかを考えた時に、私自身が北海道に住んでいることもあり、同じ場所にはいられなくても寄り添えるような媒体がいいなと思い、ラジオ形式の配信を始めました。」
周囲からも「やりたいと思ったら始めてみたらいいんじゃない?」という声もあり、肩の力を抜いて始められたそうだ。
彼女のキーワードである「穏やか」。そこにはどんな思いが込められているのか伺った。
「自分を信じている、または信じられる状態は穏やかだと思います。私自身、自分の可能性を信じられなかった時期が長く、できないことを数えては他人と比べて自分の首を絞めていました。でも夏期セミナーをきっかけに、できないことを数えるよりも、今の自分にできることを前向きに数えるほうが、気持ちが楽だなと思うようになりました。このゆったりした時間を誰かと共有したり、対話を通して空間ごと提供したりできたらいいなと思っています。」
思わぬ「在宅医療」の現場へ
引っ込み思案から一転、地域医療を志す穏やか空間クリエイターへ 。
そんな中、忘れがたい出来事が起こる。
「入院中だった祖父が新型コロナウイルスに感染しました。母からかかってくる電話でしか経過を知ることができず、あれよあれよという間に、かなり悪い状態になってしまいました。」
祖父が入院中に新型コロナウイルスに感染し、持病の心不全が悪化。容態は転がるように悪くなり、気持ちが追いつかない日々だったという。
「何度も発熱を繰り返し、食べられないから首から点滴を入れましょう、夜に暴れてしまうからミトンをつけましょう、そんな状況でした。病院の感染対策上、私は面会できませんでしたが、母と祖母が会いに行くと『帰りたい帰りたい』と話したそうです。祖母はそれを聞いて涙していました。」
自宅に帰るのはこれが最後になるかもしれない、言葉には出さずとも家族の共通理解だったという。当初、自宅での看取りは選択肢にすらあがっていなかったが、急遽祖父の願いを叶える方向で準備が始まった。
「もともと地域医療の中でも、特に訪問診療や在宅医療に興味がありました。望む場所で最期を迎えるお手伝いがしたいという思いが昔からありました。でも、目指した医療をまさかこんな形で体験することになるとは思いませんでした。」
調整後、やっと決まった退院の日。宇高さんは大学のある旭川から実家へ帰り、祖父を運ぶ介護タクシーに飛び乗った。
「揺れるタクシーの中で、祖父が嬉しそうにしていて。『あやだよ、帰ってきたよ』と話しかけると応えてくれるんです。それだけで胸がいっぱいになりました。家族全員、これで良かったと思えました。」
病院から慣れ親しんだ家へ。祖父が旅立ったのは、それから4日後だった。
「こんなことを言ったら不謹慎に思われるかもしれないけれど」、そんな前置きで宇高さんは最期の時間を振り返ってくれた。「4日間、楽しかったんです。祖父との最期を楽しみながら過ごすことができたんです。今まで私がお世話になった実習先で見て、感じてきたことの一つ一つが、腑に落ちていくような感覚もありました。祖父は命をかけて私に教えてくれたんだと思います。」
将来について
「適当なことを言いたくない」
最後に、穏やかさを大事にする宇高さんの今後について伺った。
「将来は家庭医として在宅医療に携わりながら、その人らしさを大切にできる人になりたいです。そのためにどうやって生きていくかですが、正直、全てのことに対して迷いがあります。どこに住むのか、どんな働き方をするのか、結婚するのか、一人で生きていくのか…正解がわかりません。最近、将来の話をすると『ビジョンは?』って聞かれてしまうんですけど、正直そんなこと聞かないでほしいなって思ってます。」
聞いているこちらが笑ってしまうほど、宇高さんは、明らかに路頭に迷っている。ただ、迷っている割に、口ぶりは明るい。
「決まっていないのに、適当なことを言いたくないんです。過去とか未来とか、損とか得とかを一切無視して、今を一生懸命に生きることの大切さ、素晴らしさを体現できればいいなと思っています。」
彼女は、周囲に流されていた頃の自分を知っている。
いい子という枠にはまれば、褒めてもらえることを知っている。
そして、そんな自分を好きになれないことも。全部、もう知っている。
「今は誰にどんなことを言われても、目の前のことに誠実でありたいです。」
穏やかな彼女は、今日も明日も、自分を信じている。
取材・文:筧みなみ(南生協病院 臨床研修医1年目)
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