第19回⑤ 井上 祥先生 「キャリア迷子」だった医師が情報発信で起業するまで
「すべての人が“医療”に迷わない社会へ」をミッションに掲げ、医療情報を一般の人にもわかりやすく伝える医療情報プラットフォーム、「メディカルノート」を運営する井上祥先生。疾患に関する情報の発信を中心に、学会や企業とも協力しながら、一般の人にわかりやすく医療情報を伝える活動を行っている。
インターネットを通じてあらゆる情報にアクセスできるこの時代に、信頼できる情報を多くの人に伝えるため奮闘してきた井上先生のこれまでを紐解いていく。
偶然の出会いが重なり「情報発信」の道へ
井上先生は、初期研修の2年間を終えた後、医学教育学を専攻するため大学院に進んだという、少し変わった経歴を持つ。
「実は、初期研修医の2年でこれを極めたい、という分野が見つからなかったんです。いわゆる『キャリア迷子』の状態でした。そうした中、当時の教授であった後藤英司先生に拾っていただき、偶然、母校である横浜市立大学の医学教育学教室のお世話になることになりました。」
初期研修終了後、大学院生として医学教育学を専攻することになった井上先生。そこで初めて出会ったのが「サイエンスコミュニケーション」という分野だった。
サイエンスコミュニケーションとは、科学を一般向けにわかりやすく伝える、いわば科学者と一般の人の橋渡しをしていくような学問分野である。横浜市立大学大学院医学教育学教室では、医療分野でサイエンスコミュニケーションを行う人材である「メディカルサイエンスコミュニケーター」の育成に力を入れていた。
こうした背景もあり、井上先生は大学院で「情報をわかりやすく伝える」をテーマに、さまざまなことに取り組んでいくこととなる。
「稲森正彦先生や飯田洋先生にご指導いただいた書籍の編集や一般向けの情報発信、また、デザインを用いて人々の行動変容をうながし、疾病の予防につなげる分野である『広告医学』の普及には武部貴則先生のおかげで関わらせていただきました。そうした中で、自らも情報発信を仕事にしたいと考えるようになっていきました。」
情報発信をどう仕事につなげるか模索していた頃、新たな一歩を踏み出すきっかけになったのが、メディカルノート共同創業者、梅田裕真氏との出会いだった。
“正しい情報”の伝え方、実は難しい
「私と梅田の『課題意識の合致』が、メディカルノートの創業につながったと考えています。私自身、医療者として外来などの限られた時間で患者さんに情報を届ける難しさを感じていて、『ここを見れば正しい情報が得られる』というサイトの必要性を実感していました。
梅田もまた、一事業家として、また一ユーザーとして『どの情報を信頼してよいかわからない』『医療以外の分野では情報プラットフォームがあるのに、医療分野では存在しない』という部分に着目していました。」
こうした課題意識の一致から、医療分野で信頼できるプラットフォームを作りたいとの思いで、2014年に株式会社メディカルノートを共同創業する。
しかし、創業当初は上手くいくことばかりではなかったという。
「最初は取材、記事作成、写真撮影、掲載まですべて一人で行ったこともありました。夜通し頑張って書いた記事でも全く読まれないこともあり、かなり苦労しました。」
メディカルノートの場合、情報を届ける対象は医療者ではなく一般の人たち。この場合は、必ずしも“論理的で正しい情報”が伝わりやすいわけではないことを痛感したという。もちろん、正しい情報を伝えることは第一優先事項だが、それだけでは多くの人に届けることは難しい。
そこで、こうした課題を解決するためにとったのが「ナラティブ・アプローチ」だった。ナラティブ・アプローチとは、その人の物語(=ナラティブ)に注目する方法である。メディカルノートでは疾患に関する情報だけでなく、取材する先生の『患者さんへの思い』など、人間的な部分にもフォーカスした構成となっている。
こうしたことで、無味乾燥な情報ではなく、より多くの人に興味を持ってもらえるような、ウエットな情報提供ができると考えている。
「信頼できる医療情報にどのようにアクセスするか」という課題は、近年の新型コロナウイルスをとりまく議論など、さらに重要性の高まりを見せている。さまざまな情報が錯綜する中、メディカルノートはユーザーの検索ワードからどのような情報が求められているか常に調査し、学会やYahoo、Googleなどの企業とも連携しながら情報提供を続けている。
好奇心を持ち、一生懸命に取り組むこと
偶然の出会いから医学教育、そして情報発信へとキャリアを歩み、今では「信頼できる医療情報を全ての人に届ける」を軸に、学会・病院・自治体・企業などと幅広く提携し活動している井上先生。
若手医師・医学生に伝えたいメッセージについて伺った。
「まず私が思うのは、『未来のことはどうなるかわからない』ということです。」
自身のキャリアも、多くの偶然を経てここまできたという。目まぐるしく変化する世の中は、10年後すらも予測できない時代となった。医療分野でもテクノロジーは進歩し、疾病と治療・予防の在り方が変わるスピードはどんどん速くなっている。
だからこそ、「わからない」という前提で重要だと思うことを2つ挙げてくださった。
まず1つ目は、「いろいろなことに好奇心を持って臨む姿勢」だ。医療情報の発信者として、また経営者として井上先生が考えるのは、すべては「世の中で何が求められているか、変化を鋭敏に感じ取ること」に通じるということだ。現代は興味を持ったことはすぐに調べられる時代。さまざまなことに好奇心を持ち、興味を持って調べ、自分の頭で考えることが大事だという。
2つ目は、「目の前のことを一生懸命にやること」だという。井上先生がこれまでキャリアの偶然のチャンスをつかむうえで、最も大切だと感じたのがこれだ。どこにどんなチャンスがあるかわからないからこそ、一生懸命に取り組むことで偶然を引き寄せやすくなったり、好奇心を持つことでチャンスに気づきやすくなったりするのではないかと考えているという。
力強く語る井上先生のメッセージは、キャリアに悩む医学生や若手医師の背中を押してくれるものになるだろう。
取材・文:横浜市立大学医学部5年 印南麻央