第10回⑤ 石井 洋介先生 診療所の院長になった元医系技官、今目指す“豊かさ”とは
ある医師がいる。–––彼は高校生で潰瘍性大腸炎と診断され、19歳で人工肛門になった。人工肛門を閉じてくれた医師に憧れ、猛勉強の末、偏差値30から医学部に合格する。先輩の死をきっかけに母校の県の医師を増やす活動に取り組み、成果をあげた。その後ついに念願の消化器外科医となる。
それだけでは終わらない。自身の闘病や医師としての経験をもとに日本うんこ学会を設立、スマホゲーム「うんコレ」の開発、後に厚生労働省で医系技官となった。そして現在、在宅医療クリニック、株式会社設立、大学院講師に就任–––このドラマのような目まぐるしい人生はフィクションではない。石井洋介先生が歩んできた道のりだ。
医系技官に起業…多様なキャリアを経て
診療所の院長になり、今
冒頭のようにさまざまなキャリアを渡り歩いてきた石井先生。
今までのキャリアをまとめると、医療において重要と言われる“政策”、“経営”、“臨床”の全てに取り組んできた。厚生労働省での“政策”、株式会社・診療所の“経営”、消化器外科医・在宅医としての“臨床”だ。
それから石井先生が興味を持っているのは“デジタルヘルス”と“コミュニケーションデザイン”の2つ。この2つを生かしスマホゲーム「うんコレ」(※)の開発・監修を行った。
石井先生の詳しいキャリア、当時の想いについては、先生の著書『19歳で人工肛門、偏差値30の僕が医師になって考えたこと』に譲る。
そんな石井先生が現在取り組んでいるのは、病院に比べて暮らしにより近い部分だ。予防医療としてのスマホゲーム「うんコレ」、治療継続のための休日・夜間診療を行う「秋葉原内科saveクリニック」、そして在宅医療を行う「おうちの診療所」の運営だ。
この記事では「おうちの診療所」を舞台に、石井先生の今を掘り下げる。
※うんコレ…腸内細菌を擬人化したスマホゲーム。特徴は、「課金の代わりに『観便(うんこの報告)』をする」こと。ゲームを通して健康をサポートする。身近で手に取りやすい情報の中で、大事な医療情報を発信することを目的としている。
現場に戻ったからこその新たな目標は
「今、目指しているのは、都会の在宅医療のモデルケースをつくることです。」
石井先生は厚生労働省で2年間、地域医療構想や地域包括ケアに関する医療政策を立案する仕事に従事していた。この期間、医療を変えるには、“トップダウン”と“ボトムアップ”という2つのアプローチがあることを知る。
ここでいう“トップダウン”とは、政治家や官僚などが制度を作り、医療を変えていくこと。一方で“ボトムアップ”は、現場でモデルケースを作り厚生労働省や市町村に提案することで医療に変革をもたらすことをいう。
「実は政策を作る側も、色々な場面で良いモデルケースを探しています。“トップダウン”を厚生労働省で経験しましたが、僕には“ボトムアップ”のやり方が合うと思い、今は『おうちの診療所」で在宅診療に取り組んでいます。」
石井先生が「おうちの診療所」を構える東京都目黒区、中野区など都市圏では、これから高齢化のピークを迎え、医療資源が足りなくなると言われている。今まで病院で診ていた患者を地域へ移行することも必要となり、在宅医療の重要性が高まると見込まれている。この課題感覚も厚生労働省時代に得た。
「実際現場に立って試行錯誤すること、得意の“デジタルヘルス”と“コミュニケーションデザイン”を通じてできることを、モデルケースにして広めていけたらと思っています。」
目の前にいる、
たったひとりの患者さんを考える
石井先生が在宅医療を始めてからは「豊かさとはなにか」を考える毎日だったという。
今まで多くの医療機関では生存率を伸ばすことに注力してきた。一方、在宅医療はそれとは全く異なり、医療の先にある結果の多くは死である。いかに死までのクオリティを高めるか。そう考えながら在宅医療に携わるうち、「豊かさとはなにか」について考えるようになったと石井先生は話す。
石井先生が診療していた終末期の患者さんの1 人に、腹水でお腹が圧迫され、食事がとれない方がいた。腹水を抜くと一時的に楽にはなるが、また水が溜まってしまい体力が落ちてしまうため、抜かないことも多いという。
しかし、患者さんから「どうしても好きなごはんを食べてから死にたい」と言われ、相談のうえ、腹水を抜くことになった。腹水を抜くと食欲が回復し、大好物の焼肉を食べることができた。
「腹水を抜いたことで、ひょっとしたら、1週間寿命を縮めているかもしれない。でも、その患者さんは食事ができるようになってとても喜んでいました。この方にとっての豊かさは食事だったのです。
豊かさとは本当に人それぞれ、n=1の世界です。このn=1を見つめる時間そのものが、僕にとっての“豊かな時間”です。」
医学を司ってきたエビデンスは、研究の積み重ねである。研究はいかに多くの人にあてはめることができるかが重視される。これは当てはまるnが多ければ多いほど良い結果とされる。もちろんこれも必要なことではあるが、一方で、当てはまらない人は置いていかれてしまうという側面もある。
在宅医療で必要なのは、目の前にいるたったひとりの患者さんに幸せを感じてもらうこと。「n=1の豊かさ」を考えることだった。
「急性期の考え方から転換するのは大変でしたが、今はとても充実しています。この患者さんの豊かさのために何ができるのか。常に考えて実行するのはとてもクリエイティブな作業ですし、正解は1つではありません。僕も日々模索し続けています。」
「ひとりのため」が
「大勢のため」になる瞬間
「たった1人のために書かれたラブソングはその1人のための曲ですが、聴いた一般の人の心にも刺さる。僕は、医療でもこれを目指しています。」
石井先生が例にあげてくれたのはたった1人のための道具や方法を考えることだ。
「右手がどうしても使えない状況でストーマを使いたい人がいたとします。僕はものづくりが好きなので、持てる技術を使ってその人が使いやすいストーマを作ります。世界中に何百人と同じ状況の人がいれば、その人たちにも届けることができます。」
現在ストーマや義肢装具、床ずれ防止の座布団作成を行っており、これから発信していくことを目標の1つとしている。
ひとりの人を思って作ったもの・デザインが、多くの人を幸せにできる。
これがn=1を広げることである。
「おうちの診療所」も医療機関としてn=1だ。1つの診療所が巻き込める範囲は少ないかもしれない。しかし、「おうちの診療所」でうまくいったことをモデルケースとして広げることができる。これもn=1を広げることにつながる。
挑戦をためらう医師に気づいてほしいこと
臨床から政策の世界、在宅の世界へとフィールドを広げて活躍される石井先生。常に課題を見つけ、発見した課題を解決しようと新たな世界に迷いなく切り込んできた。
「異色なキャリアに見えるかもしれませんが、在宅医療のモデルケースを作ることにたどりついたのも、課題に飛び込むことを続けてきたからです。」
石井先生は潰瘍性大腸炎を患ったことで、周囲より4~5年遅れて医学部に進学した。医師として“普通”のルートから外れることに不安が少なかったからこそ飛び込めた部分もあると話す。
「飛び込めないと思う人へ、まず恐れている自分に気がついてください。それから飛び込むことのメリット、デメリットを書き出してみると、意外とデメリットは少ないと気づくでしょう。そうしたら飛び込んでいけると思います。」
石井先生はそう言って、私たちの背中を押してくれた。
取材・文:島根大学医学部医学科6年 齊藤安美
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