第19回④ 森 剛士先生 「人の役に」祖父の言葉に導かれ自立支援介護に奔走する医師
祖母の病気をきっかけに、外科医からリハビリテーション医へと転身し、現在は自立支援介護を日本と世界へ広げるために奔走する森剛士先生。「自分にしかできない」方法で社会の課題に挑戦し、人の役に立ちたいと活躍する森先生の原動力には、すさまじい背景と覚悟があった。これまでの森先生の歩みを取材した。
文化祭のおでん屋出店で
売り上げ歴代1位に
「どんな学生だったかというと、典型的なO型でしたね。とにかく一点集中型でした。」
3歳からテニスに打ち込み、将来の夢はテニスプレイヤーだったと語る森先生。進学先の兵庫医科大学でもテニス部に所属し、競技を続けた。大学のテニス部は万年1回戦負けの弱小校だった。しかしながら「勝たないと意味がない」と考え、日々練習に明け暮れた。
1年生から努力を重ね、部内の試合で勝利するも「後輩だから」という理由でその年の春の試合には出場できなかった。
「後輩だからといって実力が反映されないのはおかしい。」そう主張し、普段から先輩に意見することも臆さなかった。結果、近畿医科学生総合体育大会(近医大)では連覇を果たし、西日本医科学生総合体育大会(西医体)では3位を獲得する。
「人と違うことがしたい」
そんな先生の思いを象徴する学生時代のエピソードはもう一つある。
文化祭で毎年出店していた部活のおでん屋では、歴代1位の売り上げを目指したいと考えた。それまで、病院内のOBへのみチケットの案内をしていた慣例を無視し、全OBにチケットを郵送したり、大学病院へ売り込みに行ったりした。そういった身勝手な行為に、先輩やOBからは叱られたが、寄付売り上げ歴代1位という記録は確かに残すことができた。
「普通じゃ面白くないじゃないか。」
何事も、ゼロからイチを考えるのが好きだという先生の発想はいつも愉快だ。
「人の役に立ちたい」
原点は病床の祖父から送られた言葉
森先生のエネルギーの原点は、小学生時代にさかのぼる。
小学生の頃、高齢となり床に臥せっていた祖父からクリスマスプレゼントを手渡された。プレゼントとともに受け取ったのが、「人の役に立つ人になれよ」という言葉だった。
森先生は「人の役に立ちたい」という思いの原点を、「メサイア・コンプレックス」という心理学用語で説明している。「救世主」の意味を持つメサイアという言葉が用いられたこのコンプレックスでは、「人を助けることで自分の存在意義を確認する」ように行動をとってしまうのだという。そのように話す森先生の人生は、実際壮絶だ。
幼い頃、初めてできた友人らからは、悪ふざけが原因で警察沙汰になってしまった時、むしろそれをとめる側だった自分の責任にされてしまった。周囲の人から信じてもらえず、その悔しさは小学校にあがってからもずっと続いた。
大学生の頃に両親が離婚した際には、自身の出自について認識する過程で、「自分は本当に生まれてよかったのだろうか」という問いに苛まれた。
両親の離婚に対して弟や妹からは、「なぜ反対しないのか」と泣きつかれたが、「親には親の人生があるから」そうたしなめて、自分で人生を切り開く覚悟を決めたのだと話す。その当時から、人にはそれぞれの幸せがある、ということを感じていた。
脳梗塞で倒れた祖母
「自分が主治医になるしかない」
森先生の心の拠り所だったのは、本と、祖母の存在だった。世界文学全集を読みこなしていた小学生時代、話題になったのが渡辺淳一氏の小説だった。「人の役に立ちたい」という思いから、医師や弁護士を将来の夢として描いていた中で、外科医でもあった渡辺先生の作品を読み、外科医に興味を持った。中学校では、読んだ本の影響を受けて宗教や精神構造に興味を持ち、精神科医を目指したこともあった。
中学校、高校と自身の支えだった祖母は、心臓を悪くしペースメーカーを装着していた。当時日本での心臓移植は定着しておらず、定期的なワイヤーの入れ替えが必要な器具を抱えて生きる祖母の様子に心を痛め、2年間の浪人生活を経て入学した医学部では心臓外科医を志していた。
志を果たして入局した名門の大学病院第一外科では、日々、時間を惜しんで働いた。一方、優秀な周囲の医師らを目の前にして、心のどこかで「なにか他に自分にしかできないことがあるのではないか」とも感じていたという。
自分にとって大事な存在だった祖母が脳梗塞で倒れたのはその頃だった。寝たきりの生活となった祖母に、リハビリや十分な対応を行ってもらえる病院や施設はなかなか見つからなかった。
「自分が主治医になるしかない」
そんな思いから大学病院での勤務を辞め、リハビリテーション医へと転身した。
「これこそ自分にしか解決できないこと」
森先生の3つの信条とは
後先を考えずに選んだその道で直面したのは、医療制度の課題だった。経営上の問題から、慢性期の患者に対してリハビリテーションの実施がほとんど行われていなかったのだ。
これでは、自宅へ戻った患者の活動量は低下するまま、ますます身体の衰えが進んでしまう。医療的ではなく経営的な理由で、放置されているその問題に決心が固まった。
「これこそ、自分にしか解決できないことだ」
こうして、外来のリハビリを実施する施設の設立という新たな挑戦に取り組み始めた。融資を受ける段階から困難に直面し、十数カ所の金融機関をめぐってようやく手にした資金を手に、自分を信じて突き進んだ。需要の高さを実感しながら、一カ月でなんとか成果を出し、デイサービスでのリハビリテーションを実施することも実現した。
「慢性期リハビリの体制を整え、虚弱高齢者らを救うことで、日本と世界のために働きたい」
こうして、人々が「自分の足でしっかりと」生活できる世界を目指している。
森先生の信条は3つだ。
「自分にしかできないことしかしない」
「社会問題の解決しかしない」
「わくわくすることしかしない」
3つの信条を胸に、森先生が経営者として数々の困難に直面しながらも常に参考にしてきたのは、田坂広志氏の著書だった。経営学者として活動する田坂氏の印象的な言葉のひとつに、「優れた経営者は多重人格だ」という言葉があると話す。
森先生は人として幅広い面を持つだけでなく、「自立支援介護」を世界に広めるため、介護業界の枠組みを超えて、復興支援やAI、寺、リゾートなど、ユニークな視点でさまざまなかけ合わせを実践してきた。
かつては医療業界の中で価値が認められてこなかった「自立支援介護」のために奔走してきたが、現在ではついにその重要性が認められ、国策として取り組まれることも宣言されている。
現在に至るまで、厳しい場面に直面することは多々あった。若い頃には、他責のくせを克服するのに苦労した。それでも、今ではこんな田坂氏の言葉が、森先生の軸としてある。
「人は必ず、死ぬ。人生は、一度しかない。人は、いつ死ぬかわからない。」
だからこそ、なんでもゼロベースから考えることをいとわない。
それぞれの課題を解決すべく、いまだその価値を認められぬ中でも奮闘している人々に、森先生はこんな言葉で背中を押す。
「人生は一度きり。自分にしかできないことを。」
取材・文:島根大学医学部4年 大井礼美
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