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2020年4月4日(日) 芸術学博士になるまで

アビイです お元気ですか?
ごぶさたしています
昨日は、メールが1通、メッセージが数通、それだけ
穏やかで、幸せな1日でした
窓から、桜をみました

さっき、夢の中で、詩が浮かんで、忘れないように、
起きて、書き留めました
昔の前世、アトランティスにいたとき、縁があった、
というひととも会えて、眠って、夢をみるのは好きです
平らな床、布団があるのは、ありがたいです
おととし、去年、イギリスではソファと床、東京でもソファで
斜めになって寝ていたんです すっかり、心臓を傷めました

メールの一通は、絵を描くのを教えてほしい、という、
関西の方からでした
私が、体調のみならず、心境も・・・、なので、
5月の約束になりました
絵の描き方を教えてくれたのは、兄と、母、でした

亡き兄は、絵を講談社フェーマススクールで通信教育、
それを、漫画同人誌で生かし、大学のあと、
原宿の東京デザイン専門学校に通って、二科展で準入選
しかし、そこで、筆を折り、富士通、松下の子会社に入り
最後は、外資系EMCジャパンのシニアエンジニアまで
昇りつめた、努力型の秀才でした
綺麗好きで完璧主義の兄は、ありとあらゆる絵画を、私に
教えてくれました
男兄弟として、ひげの剃り方から、大人の話題まで、時に
厳しく、いつもは無限に優しかったです
遺体を、秋葉原のマンションで発見、一日かけて母に嘘をつき
急逝のショックを和らげようとしたのが、2006年6月22日です
父と、兄を相次いで、突然、亡くしてしまい、母と私は、やがて
心を病んでいたんです

古風な母は、父に絶対服従で、いつも和服 家からは、買い物以外、
絶対、外出しませんでした その買い物も、食材を買うだけでした
帰れば、必ず、家にいてくれました
父は69歳のとき、定年を間近にして、ひとりで著作集をまとめようと
お弟子さんたちだけと集まり、なぜか、母、兄、私を遠ざけて・・・、
この話は、初めて、明かしますが・・・ 
当時、学長に推薦され、国会議員になる話まで、舞い込んでいて、
つきまとう老嬢たちに閉口していて、父はとても悩んでいたらしいんです
私は当時、ひとりで東京の阿佐ヶ谷に住んでいたので、知りませんでした

父は立て続けに濃いウィスキーをあおり、角川書店の編集者・石井明さんと
泥酔するまで飲み、その日は、かなり、二日酔いでした
ふらつく父を心配して、珍しく、必死に行かせまいとする母を怒鳴りつけ、
それで、血管が切れて、脳出血になったんです
父は、最後の言葉をかけつけた私に言って、目を閉じました
運ばれた深町病院で問診されたときは、まだ、意識があって名前が言えて、
誕生日が、最後 「9月20日・・・、昭和6年」でした
私への言葉は、「スペインに行こう」でした
兄には、「兄弟なかよく」
母には、「あなたの描いた絵をください」

父が亡くなってから、毎日、母は絵を描いていました
日本画で、庭の花を色紙に
しかし、兄も急死して、母は「私が絵ばかり描いていたから」と
生きがいをなくして、次第に無気力になったんです
それでも、私の前ではいつも笑顔でした

さかのぼって、1992年3月、私は初めて、日本大学の芸術学部に
大学院受験のため、行ってみました
東京は北東に池袋、南東に銀座、北西に新宿、南東に渋谷がある
イメージです
池袋だけには、それまで、縁がなく、そこで乗り換え、江古田に
向かったときは、本当に新しい人生でした
他の大学院もいくつか、受験はしたんですが、あからさまに、
受験前から合格者が決まっている雰囲気で、試験管が内部進学者と
試験時間中に談笑していたり、で・・・
ですが、そもそも、私の実力も足りなくて、行く先がなく、焦って
途方に暮れていたとき、たまたた、募集時期も試験日も遅い、その
日芸の大学院をみつけたんです、直前の2月でした

芸術は、自分にとっては、教わるものではない、という変な意識があり、
できて当たり前、という環境にもいたので、その思い上がりが消える、
大切なチャンスでした
文学の道へ進むと、幼少時から、思っていたのに、父は私に、文学では
生きていけなくなる時代が来るし、親より大きなことをしなさい、と、
父の務めていた國學院大學への進学(ほぼ無試験で、授業料免除のはず)を
高校三年生の夏であきらめ、それからの大学受験に失敗、二浪して入った
開学したばかりの神田外語大学で入った外国語学部では、苦労続きでした
最初からスペイン語を話せる優秀な帰国子女だらけで、新人講師に合わず、専攻で落ちこぼれ その前から、演劇にのめり込んでもいました

芝居は、子供のころから、好きでした
キリスト教(バプテスト)の幼稚園でイエス様の役をやりたがったのですが
羊飼いにされたのが最初、小学校ではよく学芸会の台本を書いていました
卒業公演では、『ハーメルンの笛吹き』で、町長の役で、これは大好評
中2で、英語劇『リア王』の道化役で、またまた、大評判
中3で、ミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』の恋人役は、
恥ずかしかっただけ、ですが、歌は合唱部だったので、うまく歌えました
部活は、イラストレーション部にも入っていて、漫画を描いていたんです

高1の文化祭で、『オズの万聖節(ハロウィン)』を独自の脚本で書き、
しかし、準備中の夏、父が頭蓋骨折・脳挫傷の大怪我を負って、練習に
身が入らず、周囲とも不和になり、不出来
高2の文化祭で、アガサ・クリスティの『検察側の証人』で検事役
セリフが全然、覚えられず・・・ 俳優に向いていないと実感
高3の文化祭で、『ヒッチコックの「ロープ」』の演出になって優勝
すっかり、漫画『ガラスの仮面』に、はまっていた時期、でした

大学では、ミュージカル『オズの魔法使い』を制作、脚本、ライオン役
これは、大学1年、2年、3年で、連続して上演しました
他に、『学校』とか、『蜘蛛女のキス』の翻案『蜘蛛娘夜毎吸唇』と、
多言語劇『ベルリン天使の詩』、『オペラ座の怪人』の制作・演出・出演
語学より、演劇に時間を割いていたんです
舞台では、美術デザインも、すべて、自分で、やっていました

学生時代は伊勢丹美術館が、お気に入り マックスフィールド・パリッシュ
ラファエル前派に傾倒 ベラスケス、ゴヤ、ピカソ、ダリ、スペイン絵画も
もちろん、詳しく調べ、ミロは別格 のちに、スルバラン、ムリーリョに
影響を受けています

デザイナーは、ウィリアム・モリスと、ソウル・バス

そうした中で、神田外語大学で、劇的な出会いがあったんです
東京大学名誉教授で、美学・芸術学の権威・・・
今道友信先生が、毎週、「東西の思想」という講義をご担当
毎回、速記するようになり、必死に学んだんです
それが、学者としての基礎になりました

それだけでは、大学院に入れません
やはり、英語は、使えるようにならないと

大学1年、後藤先生という高齢の方が、″Language and Culture"
という薄いテキストで、訳読の授業、これは、役に立たず
私が変わったのは、語学教育で有名なミシガン州立大学から来て
日本人とご結婚でバイリンガルのロバート・デ・シルバ先生が
教えてくださったからです
教科書は、ロングマンの”Coast to Coast"と、ケンブリッジのもの
開眼してから、一気に、スペイン語より、英語が好きになって、
どんどん、学びました
毎年の東京国際映画祭も楽しみで、そこで、海外の映画人とも、
少しずつ、話せるようになったんです

神田外語大学時代は、スペイン語を捨てたとは言え、教員免許の
取得で、瓜谷良平先生に、1対1で、教えていただけたんです
そのとき、思わぬことを、言われたんです
「あべくん・・・ (私の本名は、阿部です)、きみね、
いちばん、真面目な君が、どうしていつまでも、スペイン語だけ
できないのか、わからなかったんだけど・・・、理由があるね」

先生は、私のノートを、閉じさせたんです

「今日から、僕のとの時間では、一切、ノートを取ることを禁止します」
「どうしてですか?」
「他の知識を得るための講義では、ノートテイキングは、有効です
しかし、語学は、読んで書くだけではなく、まず、きこえてはなせる、
その前の段階が大事なんです 君は、書くことばかりに、気をとられて
話そうとしないし、ちゃんと聞いているつもりでも、最小限しか聞かず
ノートに覚えさせて油断して、みんな忘れている」
「いえ、頭でも、おぼえていて、他のことを考えないよう、集中して、
よく聞くために書いています」
「そういうけどね、いつも、前回の復習というとき、君は必ず、
ノートを開くよね」
「はい・・・」
「つまり、ノートをみないと、ちゃんと、思い出せなくなっているんだ
頭の奥にしまい込んでいる それでは、語学力は、のびないよ・・・」

大学2年のときから、私は、塾の語学講師になっていました
そこでは、受験のため、読み書きの教育ばかりに専念していたんです
幸い、大学4年で、スピーチコミュニケーション大会への出場作品で
演出をまかされ、会話に転換する時期でした
放送大学と、NHKラジオの人気講師だった原岡笙子先生にかわいがられ
他学科なのに、英米語のみなさんを私が指導する立場になっていたんです
さらに幸運なことに、合わない講師陣ではなく、スペイン語学科に、新しく
柳沼孝一郎先生が着任 なんと、4年生で使うテキストが、1年のときと
同じ本・・・ そう、無理に高度な授業をしてばかりだったスペイン語学科を柳沼先生は、変えてくださったんです

英語の語学力が伸びたのは、吉本晋一朗先生のおかげもあるなのですが、
長くなるので、次回以降に、そのことは、書きます

そうして、大学院に入れる語学力をみにつけ、芸術の経験も積んでいて、
なんなく、超難関の日本大学大学院芸術学研究科に入学できたのです

ここで、芸術学博士になる方法を、記しておきます
ただし、私が出る時期、すでに、ほとんどの先生方は、ご高齢になっていて
入れ替わってしまいました
日芸で、今から、芸術学博士※になる方法は、分かりません
※正確には、博士(芸術学)

ここには、世界中、どこの大学でも、芸術学の博士になる方法を示します

1)まずは、語学・・・ 最低、2つ
私は、13種類の原語を学びました
学び方は、いろいろ、です

2)そして、文学、文芸・・・ 目を大切にしていれば、文庫本が読めます
スマホばかりだと視力が衰えてしまい、ネットにない本が読めなくなります
芸術学は、古典の知識、学識が重要なんです 
古書店、図書館で得る感覚と感性は、潜在意識と顕在意識の融合につながり
決して、電子空間だけでは、分からない、心の美意識で、深奥に目覚める、
愛の表層を切り開くには、言葉を、ひとりよがりでなく、幅広くしないと
さまざまな文体に慣れて、解釈を広げるために、乱読です

3)美術館、博物館に、通いましょう

4)映画館、劇場に、行きましょう
コンサート、寄席もよいです

5)恋をしましょう
芸術学は、美と愛の学問です

6)健康に過ごし、親を大切に

7)社会的に悪いことをせず、道徳、倫理観を優先しましょう・・・

3~7は、追って、詳しく述べます

1978年4月4日、キャンディーズ(伊藤蘭、田中好子、藤村美樹)が、
後楽園球場で、解散コンサート 私は、ミキちゃんのファンで、テレビで
みていました

その20年後、1998年4月4日、アントニオ猪木の引退試合、東京ドームに
私は行って、前から20列目に座っていました

2022年、さて、何がどう、変わるのでしょうか・・・

(つづく)








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