精神科に行ってきましたレポ
長らく精神的な不調が続いていたので、先月意を決して大学の精神科を予約、1ヶ月待ちと言われて今日ようやく受診することができたので、雑にだが覚書をしたいと思う。
結論として、
考えすぎと言われて終了。
本当に。
あなたは考えすぎです、と言われた。
なんとなくそんな感じがしていたし、そうなるんじゃないかなぁ、という気もしていたのですが。まさか本当にそうなるとは思わなんだ。
順を追いましょう。
まず問診票を記入。
生年月日、住所など諸々の他に、相談したいこと、受診すると相談した時の家族・友人の反応、メンタル面の得点を図る9つの質問(PHQ-9といいます)、などなど。
記入が終わったらまず、医師とは別の人と面談。軽い生育歴などをちょこっと話して終了。
その後医師の方と本チャンの面談。
私が語ったこととしては、
・人生へのモチベーションがない
・社会との不適応で苦しんでいる
・立ち行かない未来への不安が著しい
・このままだと生きるか、死ぬかの二択である
・あくまで死ぬことは本望ではないが、死が選択肢として含まれてしまうという状態である
とかそんなあたり。
一通り話し終わり、諸々の質問に答え終わると、一言、
考えすぎです、と。
あれでしょう、生きる意味を問うてしまうタイプでしょう、と言われ、はい、と答えると、
生きる意味はと聞かれたらどう思い浮かべる?と聞かれたので、
「人間は死に向かう生き物なので…それに抗うために…死の超越を、すなわち何か遺すことを、それが意味だと、目的だと私は考えています」
とはっきり答えた。(これを他人に口から話したことは初めてだったように思う)
「でも…大半の人は何も遺さないよね、例えば…祖父の一つ上の世代のことを知っている?何も知らないと思うんだ もしそれが意味なのだとすれば、大半の人間は死滅しないといけなくなる」
正しいと思う。全くその通りだ。
だから私はそれを別に人に押し付けるつもりで語っているのではない、あくまで自分に課していることだと、他人が死滅しようと、私はそう思っている…と考えていたのだけれど、それも見透かしたかのように
「もしかすると他人より特別でありたい、何者かでありたいという意志が強いのかもしれないね」
結局のところはこれに尽きるのである。
”そう”語る人が語らない心の裏、結局は簡潔に言えば特別でありたいという意志の現れでしかないのである。
何もかも正しい。
次いで、
「考えすぎというのはつまり…言葉に頼りすぎているということで…言葉には限界がある」
問診票に聞きたかったこと、実存は適応に先立てるのか…ということを記入したのだが…無意識のうちにサルトルをもじっていたことに気づかず、実存主義的なところを絡めて語られた…
「ハイデガーなんかがそういうことを言っているんだけどね…」
と。
つまり、いくら考えてもわからないこと…考える=言葉で語ることは、つかめないこともあるのだ、と。
元のサルトルについても解説をされた。
「実存は本質に先立つ」ことについてである。
本質というのは、~は、~である、という記述。
実存(現実的存在)は、~が”ただある”ということ。
西洋哲学は本質が先行していたから、それを転換させようとした…ということである。
結局、~は、~であるということを記述するには、言葉を用いなければならない。
更に言えば、その記述によって得られるのはその言葉の定義でしかない。
言葉によって得られないもの…”ただある”ことを示すには言葉では限界があると。
生きる意味とか、そういうことは考えすぎても掴むことができない…
「考えるな、感じろ」
「ブルース・リーの言葉なんだけどね」
この言葉をこうも論理的な文脈で語られたのは初めてである。
きっとこれも正しいのであろう。
「あなたは適応できていないと言うけど、高校時代の友達とDiscordで通話して、バイトも行って、普通の仕事して、そこそこに適応できていると思うよ、適応できていないとは思わない」
「あなたは二分法的に考えすぎなんだろう、適応できないこともあるし、適応できることもある」
「もう少し自分のいいところを見つけてあげたほうがいいかもしれないね」
「あなたははっきりと死にたいわけではないと言ったから、今のところは多分大丈夫だと思うよ」
「自分は周りの人間とは違う(ここでは適応できていないという文脈である)と思いすぎない方がいいよ、多分そんなには変わらない、みんなそれぞれ抱えているものがある…あなたが特別でありたい、と思う故に苦しんでいるのかもしれないね」
何もかも正しい言なのだろう。何も言い返すことができなかった。
休学に関しても聞いてみたのだが、
「1年休むのと、5年かけて卒業するのと変わらないのだから、急ぐことはないよ、今のままだとつらそうだからそれも選択肢ではあるけど…(ここで口ごもる)まだやれることがあるんじゃないかな」
きっと”頑張れる”と言いかけたんだろう、と思う。”頑張る”はNGワードだからだろう。
そんなラスボス寸前に差し掛かったあたりのNPCがやりこみ要素のやり残しを示唆するようなセリフを言わなくても、と思った。
まぁしかし、それも正しい、休学しても単位へのプレッシャーは変わらないし、3年間で2年間分を学ぶのとなんの変わりもない。
「体内時計を整えるために、寝る時間よりも朝起きる時間は整えた方が良いよ、こちらでできることといえば睡眠薬を出すことくらいだから…次来た時キツそうだったら睡眠薬を出そう」
と、こんな調子で問診は終了。
…なんだろう、この感覚は。
何もかも正しいことを言われて、正しいことをされたのに、腑に落ちない感覚。
考えすぎ、ということをああも理詰めで語られると、もうそれ以上何も言えなくなってしまう。
ただ考えすぎと言われたのならそんな根性論あってたまるか、で済むのだけれど。
結局のところ、この腑に落ちない感覚が一般の人との差で、どうしようもすることのできない部分なんだろうなぁ、と思う。
ついでに言えば、(要約してしまえばだが)陰キャも陽キャもクソもなく、あなたがそう感じすぎているだけ、自分が特別であろうとしているだけ、ということは正にそう…陰キャとか陽キャとか語ろうとしているオタクの一番の盲点、そもそもその二分法が誤りだということ…を指摘されているようでかなりしんどかった。
ここからは事実ではなく…私の感想と考えだが…
中途半端に心理を専攻しているがために、何を聞かれているのかまるわかりなのは本当によくないと思った。
監視されている感覚はないですか、とか聞かれているのは、統合失調症だな、とか。幼少期に収集癖があるかどうか聞くのは、自閉症スペクトラムだな…とか。
私の場合それで結果に影響が出るようなほどバイアスがかかったわけではないと思うけれども…
誠実でありたかったので、鬱の方に誘導するような回答はしなかった。あくまで自分の思うところを答えた。
が、ここまでメンタルの不調を感じていても考えすぎ、の一言で済むのか…というのは流石に衝撃を覚えた。
そうか、考えすぎなのか、と何かが腑に落ちた感覚と、新たに魚の小骨が数本喉につっかえるような感覚…
精神に携わる職というのは、”正しさでどうにもならない部分”のケアをするんじゃないのか、と思ってしまった。
言われたことは何もかも正しい。何も言い返すことはない。
しかしその正しさで飯は食っていけないのである…
適応できていないわけではないことは事実だが…それが今後の生活に影響を及ぼさないかどうかとは別問題であって。
正しさを何回も突きつけられたところで、それは今ある問題を改めて見直すことにしかならない。私は抱える諸問題を踏まえた上で来院しているつもりだった…
じゃあどうすればいいんだよ?と自分に問うた。
きっと私が求めているのはメンタルの改善なのではなく、なにか恩寵による救済なのだろう、とはっと気づく。
つまるところ自分で何かしない限りは何も改善しないのである、という気づき。それは精神科でどうにかなる問題ではない。
それに気づいて、またスッと喉を通って、新しく喉につっかえる、違和感。
他人に救ってほしかったのだ。
自分の力ではなく、誰かに。
そんな怠惰な自分に気がついて、嫌気が差した。
自分の人生は自分以外の力ではどうにもならないのである。
そんな当たり前のことに自分は気がついていなかった。
落胆した。
這いずり回って最後に差し伸べた手もまた、生の孤独を突きつけられるだけに終わったのである。
…言葉に限界があるなら、こうした私の無念も、伝えきれてはいないだろうか。
無力感や虚無感を感じる気力すら消え、もはや脱力する気力しか残っていない。そんな気分だ。
結局、これをきっかけに何かが改善することはないだろう。
今まで通りの怠惰な生活を続けるのだろう。
救いなどなかったのである。
死ぬつもりはないと答えたけれど、問題を新たに見つめ直して、やはり死ぬしかないじゃないか、と思ってしまうのはどうなんだろう。
精神科に行った意味あったのかな。
”正しさでどうにかならないもの”を拾ってくれるのは、精神科ではないようです、というお話。
締りが悪いですが以上。
まぁ…薬漬けにされなかっただけマシかな…