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気を遣うって難しい
気を遣うって難しい。
社会的責任が重くなっていくにつれて、他人との距離の詰め方が下手になった。
「いや、社会人一年目が何をいうてるの」、と思われるかもしれないが、大学生になって、さらには会社に行くようになって、確かな感覚として存在している。
自分の心と、他人の心の間に薄い膜ができたみたいだ。
なぜなんだろう?
それは、気を遣うことを覚えてしまったからと思う。
他人に嫌われる恐怖を覚えてしまったから、容易に距離を縮められなくなった。
「こいつは嫌な奴だ」と思われないように、慎重に謙遜を重ねながら言葉を選ぶ。まるで地雷原を歩いているみたいだ。
最終的に、あんまりに気を遣いすぎてめんどくさいやつと思われてしまい、他人が離れていくのだけれど、なぜだか辞められない。
幼いころと比べて、語彙力は格段に増えたし、他人との関わる経験をしてきた。けれど、それと反比例するように人との接し方が迷子になった。
不思議なものだ。
コミュニケーション能力の”コ”の字も知らなかった頃のほうが、他人の心情が見えた気がする。自分と他人の境界線が曖昧だった。
いや、自分が他人の負の感情を感じ取ろれなかっただけなのかもしれない。
年を重ねるにつれて、人生に必要なものが増えていく。
良くも悪くも、日本人は各ステージにおいて、年相応の能力を持っていることが重要視される。
上手く人生を制御していくためには、コミュニケーション能力、忍耐力、知識、経験などを習得していきながら生きていくしかない。
しかし、習得する反面、失うものも当然ある。
僕だと例えば、中学生になったら全能感がいなくなった。
高校生になったら夢がいなくなった。
大学生になって、夢が復活した。
そして、世界一周して夢の一端が叶った。
大学院生になって、自分が何をしたいのかわからなくなった。それなりに幸せなのだけれど、夢がなくなったのだ。
そして、社会人になって、人生の終着地点で手に入れられるものが明確化した。
初めは漠然と夢だけがあった、ただそれだけで毎日があった。少しづつ夢はその姿を変えて、何の変哲もない入れ物になった。
でも、今まで生きてきたから、自分がある。積み上げてきたからこそ両足で立てっている。足跡は嘘をつかない。
周りを見渡して、持っているものを数えてみる。
現在、自分が立っているこの場所は、そんなに悪い場所ではないよな。