電気ナベ

  久しぶりの音のしない目覚め。かなり不穏。
まぶたが勝手に開いていく。体が冷めていて、完全に元通りの状態でいる。カーテンを閉め切っていたために、時間感覚が失われている。曖昧な不安が輪郭を得ていく。
  身体が慌てだし、急いでいるかのように携帯の時刻を確認する。いつも楽しみにしている水曜二限の開始2分前であることが判明する。授業に寝坊するのは人生初めてである。
  大学生としての生活が始まってから、めっきり怒られなくなってしまった。私は怒られるのがとても怖くて、嫌いなので、何にも恐れることの無い日々はとても良いもののように思っていた。
  だが、今日初めて寝坊してしまった。今まで、怒られたくないという単純な理由で出来ていた早起きが今では効力を失い、失敗の可能性を帯び始めたのである。
  そんなこれからの堕落が想起されながらも、現実ではまだ誰かの怒りを最小限に留めるべく、せっせと朝の支度をしている。熱めのお湯を勢いよく蛇口から出し、レンゲのような形を作った手でもって、顔に反射させる。目だけは別で洗う。近くにあったセーターを着て、一応先週の水曜日も着ていなかったか思い出す時間を作る。身支度を終えたあとは、二限のゼミに必要な本とパソコンだけをカバンに詰め込んで、家を出た。大したもので、人間急ぐと、普段30分くらいかけることを7分ですますことが出来た。
   大学まで自転車を飛ばす。さすがに音楽は聴けないが、鳴っていてもおかしくないとは思った。それはおそらく爽やかな曲なんだろうな、とぼんやりと浮かぶ。また、いやいや遅刻してるんだぜ、とも思ったので、知ってる中でできる限りホラーテイストの曲なんかも探してみたはいいもののの、全然合わない。きっと、二限すぐの太陽があまりにも力を失いそうにないからかもしれない。
   ゼミで使用されている教室を空けると、授業が行われていた。当然である。私は少し恥ずかしそうに会釈し、先生も少し微笑んでくれたが、取り扱っている小説の解説を止めることはない。当然である。そしてまた当たり前のことであるが、少々空席が目立つ。そこをひとつ埋めるべく、誰かは座りそうだという席を見つけ、腰を落ち着かせる。
   そのゼミは、アメリカのフィッツジェラルドが書いた「グレート・ギャツビー」という有名な小説を原文も読みながら、みんなで深めていこうというゼミである。文学に興味があるのもあるが、私は何よりそういったゼミに集まる人間にとても興味があった。ほとんど全員が自分のためを思い、誰かを救うことのできる力を持っていることを忘れてその場にいる。もちろん、実際に話してみて、誰かのためをも思える、「両立出来る」人たちであったが、やはりそこに座っている時だけは思い思いの方向に想像を散らしている皆さんでもあるのだ。
   そうした場がとても心地よく、毎週の楽しみとなっている。だからこそ、初めての遅刻がこの授業だなんて、自分でも信じ難いのであるが。とはいえ、大学であるがため、遅刻をした私はすぐに受け入れられ、何のお咎めもなく、話に混ざることが許される。
   こうして、発表やら、ディスカッションやらを楽しく終えることができ、3分ほど延長して、授業は解散となった。私も帰る支度をしたが、遅刻したくせに帰るのは早いなどと思われるのも癪で、支度を手間取っているふりを数分間行った。そして、最後の集団が教室を出ようとしたタイミングで、私も教室を出ようとした。
   前の集団が離した扉が閉まりかけ、私が手を伸ばそうとした時、突然、
 「京田さん!ちょっといい?」
と、教授から声をかけられた。かなり動揺した。お咎めを食らうものだと思ったからだ。
 「はい、、」
謝ろうか少し迷ったが、自分からきっかけを作ってしまうのも怖いと思い、黙ってしまった。すると、
「京田さんって下宿だっけ。」
「え、、あ、はい。国立で一人暮らしです。」
「あ、そうだよね、だったらさ、ナベとかいる?」
「え、ナベですか。」
「うん、今電気ナベが余ってしまっていて、使うのであれば、あげようかなと思って」
「え、ナベなんてもの頂いちゃっていいんですか。」
「ええ、使わないもの、いいよ。あでもね、電気ナベの使い方分かる?」
「いや、料理には疎くて。」
「んん、料理の感覚は別にいらないかな。」
「え?」
「要するにね、電気ナベって電気を煮込む鍋のことなのよ。」
「からかわないでくださいよ。」
「からかってないよ、全く。フィッツジェラルドの研究の関係で、アメリカに行った時にもらったのよ。」
「そんなの、なんで僕に渡すんですか。あと、使い方とか知ってるわけないじゃないですか。」
「でももし、知ってたら失礼でしょう。」
「え」
「私もそう聞かれたのよ。アメリカで私にくれたその人に、名前はもう覚えてないけど。君はこの電気鍋の使い方が分かるかってね。私も分かるわけないじゃないって怒り返したわ。でもね、その時彼なんだか寂しそうな顔をしたの。」
「寂しい?」
「間違いないわ、いくら外国の人でも表情には通ずるものがあるでしょう。彼はきっと寂しかったのよ。あ!わたしそれ知ってるって叫んでほしかったのよ。」
「あの、すみません、全然わからないです。」
「いや、ごめんなさいね。正直、からかってないってのは半分うそ。たまにこの質問を投げかけたくなるのよ。」
「はあ、」
「いや、でもね、誰彼構わずってわけではないのですよ。私だって人を選んでるのです。」
「これは喜んでもいいものですか?」
「あなたが決めればいいと思うわ。とにかく、電気ナベは実在するし、貰ってくれるならあげてもいい。どうしたい?」
「、、すみません、いただきます。」
「はは、受け取ったのはあなたが初めてよ。」
「少し図々しかったですかね。」
「いいえ、他の人の方が図々しかったわ。あなたが一番マシだったから、受け取ったのよ。そうに違いない。」
「ちょっとまたわからないです。」
「いいのよ、受け取ってくれるんでしょ。十分よ。ありがとね。」
「いえ、失礼します。」
「はい、ではまた来週」
   
    家に来る電気鍋で実際に煮る対象がなんなのか、少しも検討がつかぬままゼミ室のドアを開ける。二限終わりの光が中庭から刺してくる。温まった階段を降りる。まだ空席の子達が気になっている。休んだ理由とかはないのだろうか。

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