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経験は宝物

今日、GNH研究所の代表幹事の平山さんとお話をしていて、気づきをもらいましたので、シェアさせていただきます。

『人は皆、王であり、女王である』

本題に入る前に、この話をさせてもらいたいと思います。これは、私の同好している「五行歌」の主宰、草壁焔太先生が記した言葉です。「人は皆、王であり、女王である」すなわち、人はみんな、自分という領土の王であり、女王であるということで、自分の心や感じることは、自分のもので、他人から侵略されることのない場所であると、私は解釈しています。

そして、その感じたことや経験したことを、自分の言葉で記すこと、今流で言うと”アウトプット”することは、他の人へ自分の思いを伝えることにつながり、それを受け取った人もまた、それ(インプット)に対して、何かを感じることがある(あるいは何も感じないという感じ)を持つことがあるでしょう。

その際に、その人が感じたことは、受け手の私たちが感じたことや考えたことではないので、不可侵の領域で、尊重しなければならないと思います。もちろん、その言葉に対して、”自分”はこう感じた、こう思ったということを反応したり、アウトプットすることは問題ないと思いますが、その人のことを否定してしまうのは、違うのかなと考えます。

多くの人の多くの体験

今のような時代になると、オンラインでつながることが普通になり、場所や時間を限定することなく、コミュニケーションを取ることができます。今まで以上にいろいろなコミュニティがあることを知り、様々な機会に恵まれて、インプット、そして、アウトプットのチャンスに巡り合うことが容易になりました。

今まで、つながることがなかった人とも、年代ともつながることができて、それにより、多くの学びを得ることができます。学びは、自分の知らないことを知ることだけでなく、知っていることでさえ、再度、学ぶことで、新しい気づきをもたらすことがあります。そして、理解を深めることにつながり、時として、新しい発想が浮かんできます。

そんな多くの人には、今まで生きてきただけ、経験があります。自分しかできなかった経験が。同じ学校に通っていても、同じ授業を受けていても、同じ部活で頑張っていても、同じ女の子を好きでいても(これは載せなくてもいいか)、経験は別物です。同じ会社に通っていても、同じ会議に出ていても、同じように社員旅行に参加していても、同じ時間を共有していても、経験は別物です。

自分が得てきた経験というのは、他の人と同じ時間を共有していたとしても、異なる経験として自分の心の中に残っているものだと思います。たぶん、事実はひとつなのかもしれません。でも、それを見る目や見る角度、経験する深度など、微妙に、時には大きく違うため、異なる経験として残っているのでしょう。

経験は宝物

私たちは、一日一日、一秒一秒、生きているという稀有な経験をしているように思います。偶然に命をもらい、この世に生まれ、命を育み、時を刻む中で、いろいろな経験をして、体験をして、そして、さまざまな”思い”を持ちます。それこそが、『宝物』のように思えてならないのです。誰もが、今まで生きてきただけ、『経験という宝物』を持っているのです。

その人の人となりを知るのに、経験を語ってもらうといいですね。その経験を語る中から、事実と感情の起伏が見え隠れすると思います。それに納得し、心動かされ、共感し、疑問をもち、その人に興味をもつようになります。こちらからの問いに、答えをみつけ、思いを共有してくれるということだけでも、素敵な時間になることでしょう。

まるで、減らない宝物を分けてもらったような感じとでもいえば、いいでしょうか。だって、いくら話しても、いくら説明しても、その経験は変わらず、減ることはないわけなので、であれば、経験という宝物をシェアすることって、ありじゃないですか。お互いにメリットのある素晴らしいアクティビティになるように思います。

言葉にすることの意味

それと、経験を言葉にすることって、とても大切だと思うのです。そこには、事実があるのですが、厳密にいうと、その人というフィルターを通して、経験の事実を語ってくれているので、ある一方向からの事実ということになるかもしれません。でも、人に伝えるために、言葉にすることで、それを客観的に見ることができるようになるのかと思います。

経験を自分の言葉で伝えること、経験という宝物を人とシェアすること、そのことで、何かが変わるのであれば、素敵なことだと思います。


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