『邪教』の終演のブログ
劇団ド・パールシム第二回本公演『邪教』終演いたしました。ご来場誠にありがとうございます!劇団として、新たな一歩を踏み出せた公演になったのではないかと思っています。劇団ド・パールシムは今後とも精力的に活動して行きますので、是非ともよろしくお願いします。もしよければ推してください!
そして次回作は、来年の1/31(水)-2/2(金)です。駒場小空間で行います。『流れる羊』という題名の芝居です。是非ご来場ください。
『邪教』は宗教的な愛の話を書いた。多分この話は自分のこと。自分の話を書いた。多分今までそこそこの数の劇作をしてきて、初めてだと思う。自分のことを書いたのは。個人的には自分のことを書くのは避け続けてきた。恥ずかしいし、なんかチープなものになりそうである。何よりこれが伝わるだろうかという不安で、終演までまともな精神状況でいられるわけがない。
前までの自分の作品を見てくださった方々は知っているかもしれないが、自分は非常に暴力的な芝居を作っていた。人が死ぬのはいつも、あとはラブホテルが爆発したり、首絞め性行為、レイプ。そんな事ばかりを作品にしてきた。そしてそれには、いつもある種のメンヘラ的な要素が詰まっていた。
なんか暴力が書けなくなった。いや書きたくなくなったのだ。恋愛のために、何か目的のために暴力を振るうのが馬鹿らしくなかった。いくら本気で暴力的になったとしても、無理なものは無理だし、ダメなものはダメなのだ。そんな無理なものを必死に追い続ける様はかっこいいし、ドラマになる。でも僕には向いていない。熱のあるものを熱のあるまま芝居にするほど性格が良くなかったのだ。それと同時に、言葉の不安定さをありありと感じた。言葉ほど信頼に値しないものはない。信じられないものはない。好きだとか、愛してるだとか、検討しますだとか、なんかこの世界を形成してるのは言語なはずなのに、全てが歪んで見える。その結果、この世界が歪んで見える。なんでこんなに信頼できない世界の中で、皆は互いに信頼し合えるのだろうかと不思議になった。すごく気持ち悪くなって、何度も死にたくなった。なんかこうゆう精神状況が、見事なほどにハマった。現実をリアリティに描いているフリをできるようになった。たのしい。
これを機に社会を描こうという気がしてきた。革命なんてものがあるが、現代において暴力じゃ社会は変わらない。暴力の対局に社会があるのだ。暴力で個人を変える演劇を作り続けてきた。少なくともここ一年半は。暴力的に人間の変化を描くことが、何かになると思っていたから。しかし今は違う。日本語で社会を描く。変える必要はない。ただただ描く。そこに愛があり、恋があり、別れがある。それは非常に不安定でグラグラしている。そのグラグラした社会の描く模様を、僕はドラマだと思った。こんな当たり前のことにどうしてもっと早く気がつかなかったのだろう。
社会を描きながら、社会について何も語らない。語るのは、不安定でボロボロの日本語だけである。そして、そのボロボロの日本語が、ボロボロの愛を、ボロボロの宗教を、ボロボロの社会を語る。それが『邪教』であり、劇団ド・パールシムの演劇である。
終わりに。今日は何故かヤニクラがひどい。シーシャを吸いすぎて、頭が痛い。多分久々の出勤だから。ヤニクラしながら、空いてる時間に『三四郎』と『斜陽』をKindleで交互に読む。客に呼ばれれば、シーシャのオーダーを取りに行くし、ドリンクの注文が入ればドリンクを作る。社会だ。自分は今社会にいる。暇になれば、『三四郎』の世界を覗いて、また暇になれば『斜陽』の世界を覗く。3つの世界が混在してる。そして、自分用に作ったバニラの甘ったるいシーシャを吸って、自分の吐く煙がその3つの境界線を曖昧にしていく。
やっぱりいい。人間っていい。最高に楽しくて、最高に不安定だ。
劇団ド・パールシム主宰 新井孔央
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