栫伸太郎から見た『邪教』

最近、二、三日ほど体調を崩していた日があって、布団の上でうずくまりながら、いつか読もうと思っていた『中村富二句集』(森林書房、1961年)を、国立国会図書館デジタルコレクションで読んだ。

中村富二(1912-1980)は神奈川県生れの川柳人。句集の単位で句を見るのは初めてだった。

この句集は「墓地」「少年抄」「青」「童話」の4章に分けられている。どの章にも印象深い句はあったが、構成というか、句の並びとして目を惹かれたのは、前半2章に多く見られる、句の冒頭、だいたい上五くらいを同じ言葉で合わせて連作のように並ばされた句群だ。例えば、「少年抄」には

 

浮浪児、ラッパが吹きたくて顔中がラッパ

浮浪児、怒っても怒っても誰も居ない

浮浪児、学校はまだ 冬の屋根さ

浮浪児、海を——父と見てゐるのではない

浮浪児、青森へ行くとて消えにけるかな

 

のように「浮浪児、」から始まる句が六句並んでいる。浮浪児という言葉を最初に出して、それに続く言葉のある種のレパートリーを陳列しているようにも見え、そう思って続けて句を読むと、浮浪児をテーマにした詩や詩の一節を読んでいるかのような気分になるが、一句を独立したものとして読むという視点から見ると、これは一種の強調の形式であるように思われる。一句目や二句目は「浮浪児が」といった主格を示す助詞が省略されているように、三句目は「浮浪児よ」などといった呼びかけの省略のように見えるが、この省略によって、「浮浪児」という言葉が、意味の接続を担う助詞というひらがなから解放され、また直後を「、」で区切られることで、文法的には他の語とどのように結びつくべきなのか不確定な状態で、剥き出しの状態で宙に吊るされている印象を受ける。さらにその剥き出しの「浮浪児」という言葉が、横一列に何個も連続して並べられることで、その言葉の孤立感が際立ち、強調の効果はより強いものになっている。『中村富二句集』は1ページに六句掲載されているので、左ページの上部いっぱいに六つの「浮浪児」が固定されて強調されているさまは、壮観だなあ、と病床の私は思った。

 

さて、このように、やはり何かを強調するには、それを文頭に持ってくるべきなのだ。あるいは繰り返して言うべきなのだ。「現代口語演劇のために」にもそう書いてある。

今回の『邪教』の台本は、倒置や繰り返しがめちゃくちゃに多い。例えば次のように。 

「二股されてたんだよね、確かすぐるに、昔、高校のとき? 二人。や、二股どころじゃないんだっけ。三、四…」

「前だけど、さゆりに一回言った気がする、同じこと、俺が。」

「戦車撃つやつなんだけどね、ジャベリン」

「ジャベリン(笑)」

「ジャベリン(笑)。なんかこう(…)」

 

「波の音」

「ええ」

「いい音」

「え?」

「あ、コレ。いい音ではないか。海だもんね」

 

語順が執拗にばらばらにされてあったり、特定の単語を、短い期間の間に何度も繰り返したり。これは何を強調したいのだろう。二股とかはなんか大事そうだし、強調される意味はあるのかもしれないけど、ジャベリンとか、全然話の筋に関係ない。あんまり強調する意味もない気がする。それでも役者がしゃべると、繰り返される語とか、倒置される言葉はやっぱり強調されていく。文法の定める流れに逆らって、言葉が言葉自体としてそこに存在し始める、ように感じる。対して意味のない言葉でも、その言葉にその場が包み込まれていくような。もちろん、観る人は、役の話すセリフに意味を見出そうとする(と少なくとも期待している)けど、語順が千切れて、執拗に繰り返されていく言葉を前に、その言葉自体を意識せざるを得なくなっていく(ことがある、気がする)。言葉の意味が指示する、今この場にない何かではなく、この場所で今、言葉を話すという行為や、話された言葉自体に目を向けさせたい、のだと作演出の新井は思っているのだと思う、多分。ちょっと自信がなくなってきたけど、話され、繰り返された言葉が微妙な空気感の変化やねじれを生み出していく感じを、私は稽古場で何度も経験してきたし、観に来てくださった方にもそれを感じてもらえると思う。

 

『中村富二句集』の前書きには「川柳という名に残されたモノは、技術だけである」という有名な一文がある。「浮浪児」という言葉の執拗な提示も技術の成果なのだろうか。言葉を性急に(といってよければ)大量に語頭に持ってくる。随分強引だが、強引さと技術は遠いもののようでいてかなり近い。強引さを実現するのは往々にして技術だ。

この演劇にも何か技術が残されているとすれば、その一つは繰り返され、文法を犯しながら話される言葉の吐き出し方だ。それは強引でいて、人間臭くて、どこか美しさをも隠し持っている、気がする。もちろんその強引さも、人間臭さも、美しさも、その技術とともに、やがて例外なく死んでしまう、人間の、目の前にある肉体が支えうけているものだと思うが。

 

劇団ド・パールシム第二回公演『邪教』

日時
9/1(金)14:00-/19:00-
9/2(土)14:00-/19:00-
9/3(日)14:00-/18:00-

会場|イズモギャラリー(東京メトロ東西線早稲田駅、東京メトロ大江戸線牛込柳町駅)

料金|¥2,000

予約フォーム
https://www.quartet-online.net/ticket/heresy



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