皇帝と反乱将軍と間諜と
学生のころに読んだ世界史の参考書に、中国の清朝の最盛期は第4代皇帝の康煕帝から雍正帝、乾隆帝に続く3代の時代と書かれていて、そのことがきっかけで康煕帝という名を知りました。
それから康煕帝という人物が登場する歴史関係の書籍や雑誌、ネット記事を何度も読むことがあり、それらの評伝では広大な帝国を統治する為政者として、康煕帝は極めて高く評価されてます。
康煕帝は皇帝在位中に政治に取り組むことも、知識を吸収することも旺盛な態度を示し、康煕帝についての様々評伝を読んで、4代目からの清朝最盛期は、康煕帝の政治と学問に対する努力の結果だと思うようになりました。
今年の夏になって、康煕帝が皇帝即位後に起きた三藩の乱という反乱を鎮圧する経緯を小説にした本があることを知って読みました。
小前亮著『賢臣と逆臣と 小説・三藩の乱』では、康煕帝が皇帝に即位する前の年の1660年から、清朝による三藩の乱の鎮圧の見通しがたった1679年までの動乱の時代が物語化されてます。
実在の人物が22人、フィクションとしての人物が3人、計25人が主な登場人物として本の巻頭で紹介され、ストーリーはこの25人をうまく配置してまとめらているので、この人物のストーリー上の役割は何だったろうか、と戸惑うことがありません。
『賢臣と逆臣と 小説・三藩の乱』の舞台となる都市や地方も本の巻頭にある地図によって表示され、登場する人物が立つ地名について詳しくなくても、地図を見れば見当がつくようになってます。
巻頭にある人物紹介文と地図と簡潔な人物描写によって、父の順治帝が死去した時にまだ少年だった皇太子が即位して康煕帝となり、子供だからと皇帝を軽んじる満州人の重臣、中国の伝統に固執しヨーロッパの技術導入に反対する清朝高官、自分の政治的主張を押し通そうとして譲り合わない皇帝の側近、中国南部で強力な軍事力と独立的な領地をもっていた漢人の将軍達の反乱、など様々な圧迫や反抗に遭いながら、良き皇帝になると決心して知識の吸収と人格の研鑽に励み、圧迫や反抗を跳ね返して成長していく康煕帝の姿を、子供の時から青年にかけての成長を活写したドラマを見てるように追うことができました。
『賢臣と逆臣と 小説・三藩の乱』の中心人物である康煕帝に反抗する最強の挑戦者は、中国の雲南と貴州を独立国のように支配していた三藩の乱の首謀者の呉三桂です。
本書には、康煕帝と呉三桂の間を往来する李基信というフィクションの人物が登場します。
李基信は幼少のころに父母と別れ、育ての親から李基信の父母は明を滅ぼした農民反乱の指導者だと聞かされるが、詳細は不明で、名家の養子となるものの追い出され、引きとってくれた商売人は実は清の間諜の元締めで、李基信も大人になって清の間諜となり、三藩の乱の前に呉三桂のもとで活動するようになりました。
李基信は普段は冷静ですが、呉三桂の欠点は目につくものの嫌いになれず、ここで呉三桂が軍を進めなければ勝利はないという場面で、清の間諜でありながら呉三桂に進軍をうながす個性的なキャラクターです。
李基信を主役にして、舞台や映画をつくっても面白い気がします。
三藩の乱のうち残りの二藩の尚之信と耿精忠は呉三桂に比べて器量が落ち、反乱の主導権は呉三桂が握ってました。
三藩の敗北と清の勝利が見通せるようになった時に李基信は、重大な局面で適切な決断ができなかった呉三桂は覇者の器でなかったと簡単に言えると思えない、では康煕帝は決断できたか、三藩を廃止して藩王の権限を没収するという康煕帝の決断は傲慢で独善的だが、相手に助けられた面があるにしても最後は成功しそうだ、と自問します。
私は、重大な局面でどの進路をとるのが最善かという決断力では、康煕帝が呉三桂を上回っていたと思います。
ただこの決断力の差は、三藩の乱が起きた時に康煕帝は一九歳、呉三桂は61歳、複雑で膨大な政治の努めに飽きることなく励む青年皇帝と当時なら老境となる将軍、決断力の差は本人の資質ではなく、年齢的なものもあったのかもしれないという気もします。
『賢帝と逆臣と 小説・三藩の乱』が面白く読めたので、今回はその感想を書きました。
清の前の中国の王朝である明が農民反乱軍によって滅ぼされ、その時に明の将軍だった呉三桂が山海関を開いて、清が満州から中国本土のなだれ込む状況を小説にした本として司馬遼太郎『韃靼疾風録』があります。
こちらも20年以上前に読んで面白かったので、また再読したら、こちらの感想も書こうと思います。
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