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「鶏肉 たのむ」「アジ です」
父親が退院してから、というか入院(6月1日)してから、わたしが家族の晩御飯を作るようになった。現状わたしは仕事ができていないので(障害者手帳はいつ届くのだろう?)、時間があるわたしが作るルールになった。
実家に戻って5年ほど経ったが、両親としては作ってくれたほうが助かるだろう、もちろん。だけど、鬱でベッドに突っ伏すことしかできない日がどうしても存在してしまうわたしと、「ルール」というものを作るのはとてもリスキーだ。わたしはルールをいつか侵してしまうかもしれないし、両親はいつかルールを破られてしまうかもしれない。
わたしも両親もなるべく嫌な気持ちにはなりたくない。だから、家族内でのルールは制定前にいくつも立ち消えになった。
ただ、父親の入院中にお見舞いに行ったある日「その日ダメでも、何回だってやり直したらいいよ。俺だってリハビリ何回もやり直させてもらってるし。ラジオ(名前)もダメな時があってもいいから、また何回でもやり直していいんだよ」という言葉をかけてもらった。まさに、生きる為に必要なマインドだ。
父親とわたしは不仲とまではいかないが会話の少ない親子だったので、まさかこんな言葉をかけられるとは思ってもみなかった。わたしはしばらくしてから「ほんとだよね」と答えた。
そんなわけでわたしが晩御飯を作るというルールが作られた。
17時過ぎにキッチンに行くと、冷蔵庫に父親の字で「鶏肉 たのむ」とか「アジ です」とかメモ書きが貼ってある。わたしはそれを見てレシピを考える。
(「たのむ」とか「です」とか要らないんだけどな、とも思うが、まあ手書きの温かみも感じる。)
料理そのものは一人暮らしの時にやっていたし、それほど凝ったものは作らないので1時間か1時間半で、おかずと味噌汁(orスープ)が完成する。
自分で作った飯はうまい。
母親は美味しい時は美味しいと言うし、濃かったり薄かったりした時は「ちょっと〇〇だったよ~」と教えてくれる。ちょっとであれば言わんでもええやろ、とも思うが、恐らくこれはわたしが母親の作った料理の感想を全て同じトーンで「おいしかった」と言うことへのカウンターだろう。“味の感想を言ってくれたほうが嬉しいでしょう”という圧を感じる。でも悪くはない。わたしみたいに真顔で「おいしかった」と言われるより全然良い。
今日の晩御飯はアジの開きと味噌汁。魚の日は楽だ。だいたい焼くだけで済むから。料理をする時、よく星野源の音楽をかける。星野源は生活と相性がいい。
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ALWAYS MIDNIGHT. WW49
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