喩噺 ライナーノーツ
おはようございます。私です。どめぢるです。
どめぢるうどんです。朝の3:00くらいに起きて再び眠りにつくことに失敗をしてしまい、これを書いています。もう少し時間を置いてライナーノーツを書くつもりでしたが、思えば特にその必要もなく、記憶が新鮮なうちにやった方がいいよなと思い立った次第でございます。
いつもの如く
ボカコレについて タイトルについて サウンドについて 歌詞について
といったラインナップでお届けします。
⬆リスト機能が上手く使えません 助けて。
ちゃんと、寝るんだぜ。
ボカコレについて
はい、まずはボカコレお疲れ様でした。投稿時には、まだ集計期間が終わってませんが。製作した人はもちろん、見てくださった方々も含めて、何かしらの文化に貢献したことを誇りに思ってください。
私は、何か創作を行う人間のことを非常に尊く、カッコイイ存在だと思っています。そして、私の創作の原動力としては、何も無い自分という存在から そのようなカッコイイ存在に近づきたいという部分が大きな割合を占めています。
純粋に手間がかかりますのでね、時間、費用、多くの犠牲を伴います。場合によっては心身の健康も。それだとしても何かを残すことを選ぶこと、そこには、世間との認識の乖離もあるでしょう。だから、自分を肯定する為に 創作をする人間として創作をする人間を直向きに肯定していける人間でありたいです。
そして、今回私がボカコレ参加に至った経緯ですが、実のところを言うと、参加を見送る方向で進めていました。テスト期間と院試かモロかぶりしてまして、その中でも映像等の仕事が忙しくなっており時間的スケジュールもなく、大きな声で言えるものでも無い 悩みの種も肥大していくばかりの日々でした。
参加をどうするかと悩んでいる時に、出来ない理由ばかりが ペラペラと出てきている自分に気が付きました。なんか、それが嫌でした。ここで無理してでも何か動かない限り、きっとこの嫌な自分に気がついた自分が残るだけだなと思ったのです。Twitter等で過程を見ていただいた方は分かると思いますが、ちゃんと取り組み出したのはちょうど本番1週間前で、お得意の4時間睡眠ルーティンで進めていまして、諸々の感覚がボヤついて来ていましたが、自分の言葉に自分の首を締められるのに比べれば幾分と楽でした。
そんな渦中の感情等を注ぎ込んだ作品でしたので、腹を痛めて産んだ子 と言いますか、愛着の向く曲になりました。
聴いてくれた人ありがとねーーー
タイトル コンセプト
今回のコンセプトは、タイトルにもある通り、もしも話 です。そして、第一部と第二部にもそれぞれに関連して、それでいて独立したコンセプトを持たせることに成功し、タイトル付けを1番ワクワクしている私としても満足のいく出来だったと思います。
第一部:「散文銃とテレキャスター」
文化に精通した方でしたら 「打ち込んだ音 嫌いですか?」 と呼応していただけることでしょう。
「喩」の中でも投影、置き換えの意味合いの「例」を担当したパートです。
最初の情景描写から始まり、心情描写に飛躍し、最後にまた最初の情景に戻ってくる構成でしたが、これもよく出来ました。みんなの頭にも似た光景が拡がってくれてたら嬉しいな。
第二部:「tError ever」
「喩」の中でも、たられば の意味合いを担当したパートです。
タイトルの読みも タラレバ です。
タラレバを考えている時は、自分の間違いをずっと繰り返し問い続けていて、生きていく上では、そんな恐怖をずっと繰り返していくんだろうな という考えから付けたタイトルです。
トリプルミーニング、芸術点高め
そして、サブコンセプトがありまして、それが「君たちはどう生きるか」ではなく、逆の「私はこのように死を選びたい」でした。
このコンセプトを描くために、ずっと自分の中、奥底に大事に抱えている作品である 宮沢賢治の「よだかの星」を持ち出させていただきました。
サウンドについて
歌詞について長くなりそうなので、ここは簡潔に。
第一部は、「アメリカ民謡研究会」さんの影響を受けていることがモロバレするような作風となっており、自分でもそれを否定しません。ただ、差別化の必要性も感じ、シューゲイザー風に仕上げました。
しかし、思い返してみれば「どうか貴方は感情を汚さないで」という、あまりにも素晴らしい曲がシューゲイザー風だったよなと、作り終えてから気が付きました。今回ばかりは、第一部のサウンドは模倣品となってしまったと言わざるを得ません、無念。
いっその事、シューゲイザー ポエトリーの人としてやっていこうかなとも思っていますが。
さておき、ナースロボ、めちゃくちゃ良くないですか? また何かで使いたいと思います。
ドラム ギター1本 ベース のスリーピース編成で、それぞれの音を聴かせて尚且つ、空間の広がりを持たせるというサウンドコンセプトを打ち立てていましたが、割と上手くいったんじゃないでしょうか? ギターの音の割に、ボーカルが通っていて、ベースも大きめで聴こえており、個人的には満足です。
一転、第二部ではストレートなロックを書きました。「ストレートなロックを書いた」とバンドメンバーに言いましたが、世間一般的には変拍子をストレートとは呼ばないらしいです。今回は理論を考えずに手癖でギターを弾きました。なので必然的に指に馴染んだEmスケールの作品。ラストにはギターとボーカルだけのパートもあり、いつも以上にリズムや不要な音を出さないことを意識しての録音となり、時間もかかりましたが、確かなスキルアップを感じられました。
録音を何とか終えたのですが、それ以上にミックスが難航しました。ギターの音が2本とも高音に寄っており、シンセパッド等もなく、中帯域の音がスカスカになっていまして、リバーブのかけ方やeqで奥行きを出そうとしましたが、一筋縄では行きませんでした。結局、最後までまだ分からないところがありました。ここは課題点になりましたが、それと同時に方法の模索に時間をかけたので、悩んだだけの知識を手に入れられました。まだ、私は強くなれるよ。
ギターリフは非常に気に入っています。私を知ってる人が私らしい と言ってくれるような、そんな感じのリフです。自分でもそう思います。
全体としてはひとつ反省点があり、第一部と第二部に音圧の差が起きていて、動画エンコード時に平均化されて少しキャラクターがDAWでの作成時と変わってしまいました。次からは1度DAWで音の大きさをまとめてから映像をのせようと思います。みんなも気をつけようね。
歌詞について
毎度のことですが、解釈は各々に委ねています。私がポロポロと発言しますが、作品の正解は受け取り手の方にあります。それを1番大事にしてください。はい、約束。
歌詞についてといきたいところですが、その前に知人に描いていただいたイラストについての話を。
あの絵自体は私の曲の着想もない時に「なんか描いてよ」とだけ言って提出してもらった作品です。もちろん絵師の方も何が何だか分からない状態。
しかし、蓋を開けてみれば、結果的に私の書いた曲と大変マッチした素晴らしい絵になっていまして、感動しました。沈み込んで、自分の感覚も曖昧になりながら、それでも、何かを捉えようとする雰囲気。大変感謝しております。
スケジュールの都合で、それに見合った映像を作れなかったことが悔やしいです。
歌詞について。
第一部の歌詞は連想ゲームを意識しました。私は作詞の時には、連想ゲーム、対比、矛盾事象の3つを大きな柱と捉えています。過去作にも、そしてこれからも頻出すると思いますので、覚えてくれてる方がいれば、そういったところも見てもらえたら嬉しいです。デッケー〜 エゴ。略してデケエゴ。
この作品は最初の歌詞が根っこになります。普段からコンクリートの存在を認識することってないのですけれども、雨上がりの蒸し蒸しした不快な匂いと温度を感じた時には、コンクリートが存在していることを知覚します。自分も誰かにとってそのような存在なのではないだろうか? そのように考えることがあります。つまり、普段は私の事を認識しないが、私を認識した時には、私の存在が決まって不快と=で結びついている。時々、そのように思ってる人間が私の周りの人間全てなのではないかと感じることさえあります。そう思うだけの醜さを自分の中に見出しているからです。だからこそ、私は今回の作品で自分を夜鷹に投影しました。「よだかの星」という作品が好きなのは、そのような自己投影が色濃く出る作品だからという側面もあるのかもしれません。
夜鷹が空を飛びながら、口に入った虫を食べ、自分に食べられる虫のことを思い、「飢えて死のう」と言い浮かべるシーンが自分の頭の中で度々と浮かんでくるのですが、今回の作成時は割とずっとこのマインドでした。
曲の中では、鳥、烏、夜鷹、星が登場して、それぞれが簡単な連想ゲームになっているので、考えてみてね。夜は音が真っ直ぐ飛ぶというのも、物理的な事象が合い混じっていて、お気に入りの表現です。
サウンドとも上手く組み合わせて、情景描写から自然に心象描写に没入させてコンセプトの夜鷹に繋げたところなど、自分の中でもトップクラスにお気に入りの一作となりました。
第二部の方ですね。ここでは夜鷹に自分を投影させた上で、先程言ったサブコンセプトの「どのように死を選ぶか」についてを書き連ねました。
自分が本気で死を考えた時に、唯一ぼんやりと浮かんでくるのが、これまた宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のワンシーンですが、カムパネルラが死を選ぶ時に「母は許してくれるだろうか」 と言葉を零すシーンです。
自分の事で悲しんでくれる人がいるかもしれない、それならまだいいですが、私が一番恐れているのは、責任を感じてしまう人間がいるかもしれないということです。これは、完全に私が伸ばされた手を掴む努力を怠っているだけであって、その人は何も悪くない。
ここまでの諸々を考えて、どこまで行ったって自分は他人の幸せをもってでしか自分に幸せを感じることが出来ない、ある意味、酷く他人に依存した、至極自分勝手な生き物なのだと気が付き、深く絶望しました。
「君の明日を願うんだ」 という歌詞は一見、素敵な一文に見えますが、その実、何よりも自分の弱さを露呈させた一文になります。
結果、ゆっくりと周りの人々から忘れ去られた後にひっそりと息を引き取ることこそが、自分の最も望む死に方だ という結論に達しました。私に何がどう起こったとしても、誰も何も責任を感じないでください。それだけが望みです。
だけれども、ふとした時に誰かが何かを思い出せる言葉を生きているうちに残しておきたいとも思います。
"夜鷹(私)は誰にも見つかることはなく
星の姿(私の言葉)を誰からも見つけてもらえるのでしょう"
ここに示したように
姿=言葉 です。そうでありたいです。
だから、いつか孤独な人間の掴める藁のような言葉を作れるように、今の孤独を愛して育てていきます。
あと、最後の"翡する藍"は一番時間をかけて言葉を捻出した部分なので、是非考えてみてください。偶然に絵の色もこの色だったのでビックリしました。
綱渡りの状態ですが、出来るだけの作品を残していきたいと思っています。作品を作る度に反省点が見つかり、それでも確かに進化しているのも分かって 今は非常に創作が楽しい状態です。もっともっと自分は進化できるんだと思います。
長々となってしまいましたね。結局、伝えたかったのは、最初に言った 創作に誇りを持って欲しいということです。
そして、聴いてくれた人、ありがとうーー
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