車窓から見えた小さな火葬場
ある日、私は近畿のある地方から鉄道にて帰京の途についていた。
特急ディーゼルカーのエンジンの心地よい振動に身を委ね、ぼうっとしていた私の目に、なにやら印象的な構造物が飛び込んできた。
それは中京近郊の駅の近く、踏切の向こうに高い塀で囲まれた工場が立ち並ぶ一角。踏切を超えた道は行き止まりになり、そのどん詰まりは工場の塀で囲まれた小さな墓地であった。
その墓地に、赤茶色いレンガ造りの炉が据えられていた。「炉」だとわかったのは、煙突があるからだ。
あ、これが以前から興味を持っていた簡易な火葬炉、いわゆる「さんまい」ではないか?おもわず窓の向こうを凝視する。
東京生まれの私にとって、火葬場とは極めて近代的かつ秘められた存在である。都会は「死」から意図的に目を逸らして築かれた生活の場と言っても良いだろう。
私が子供の頃、霊柩車といえば宮形が当たり前で、それ以外の洋型霊柩車は芸能人の葬式の様子を放映するテレビの中でたまに見るだけの珍しい存在だった。今はどうだろう。宮型霊柩車は火葬場や斎場の近隣住民から忌避され、姿を急速に消しつつある。都内の火葬場はほとんど宮型霊柩車お断りとも聞く。(これは木造の装飾があるためのメンテナンスの問題もあるらしいが)
その斎場や火葬場も、都市部のものは一見するとそれとは分からない、瀟洒な外見の施設に建て替えられ、かつてシンボルだった高い煙突は無い。まるでゴルフ場のホールなような、さっぱりとした明るい空間になっている。あらゆる面で近代的な施設、それが都市部の火葬場であり、同時にその存在を人々が意識することも少ない。秘められた施設なのだ。
車窓から見えたその煙突の付いた炉と墓地の光景はひどく心惹かれるものがあった。なぜか?辺りは都市近郊の住宅と工場が密集した地域である。このような地域にぽつんと墓地、そして剥き出しの火葬炉がある。この日常と職場と死が密接した風景に、ひどく心が惹かれたのである。
誰もが必ず死ぬ。しかし生きている間に死を意識する人は少ない(と思う)。人々は生活の場から「死」を排除して、宮型霊柩車や火葬場を忌避し、葬式自体がどんどん簡素化されて、最近では葬儀なしの「直葬」も多いという。
先日は私の祖母を送った。祖母は大正生まれの長寿、そのため友人や親戚も既に逝去または高齢で、かつコロナ情勢の下である。ごく親しい親族、それも感染対策をしつつ来れる人だけで、家族葬という形をとった。この場合は、家族葬という送り方が良かった例だろう。多くの参列者を集めることが難しい中で、近親者がゆっくりと故人を送ることが出来る。
しかし、葬儀を面倒だという理由で、また金の節約という理由で安易に簡素化するのだとしたら、それは人心の荒廃と言うしかない。葬儀はこれからも生きていく人々のためのものでもある。故人が死んだ、という事実を受け容れ、その社会的な位置に区切りをつけるための行事である。葬儀の安易な簡素化は、生きている人にとってのケジメをも蔑ろにする(つまり人生を蔑ろにするに等しい)ものだろう。この場合の「安易」とは、「出来るのにやらない」ということである。つまりケチや怠慢の結果としての簡素化は、私は許容出来ないと考えている。
この傾向は急速な核家族化や少子化、都市一極集中、つまり人々の分断、縁の破壊から生まれたものだろう。NHKが「無縁社会」を特集したのも記憶に新しい。隣は何をする人ぞ、の集合住宅では、隣の人が何をするでもなく死んでいて、それに何ヶ月も気が付かない「孤独死」は珍しいことではない。そして孤独死して放置されるような人は親類縁者も少ないから、遺体を引き取る疎遠な縁者も迷惑がり、葬儀を行わない「直葬」になる例が多いという。
それが当たり前の社会でいいのか?と思わずにいられない。1人の人間が、華々しくはなくても何十年かを生き、たとえ失敗をして誰かに迷惑をかけたとしても、この世に生きてきたのである。その地道に生きた最後を単に焼却すれば済む、というのが現代文明なのだろうかと。
私は数ヵ月後に、車窓から見えた墓場と火葬場を目指した。
そこは車窓から見えた通りの、住宅と工場に囲まれた一角である。線路を超えた先に墓場はある。
ガードをくぐり、踏切を渡る。JRと私鉄が並走している。
ああ、たしかに火葬場だ。死者の縁者が集まるための炉前。故人の肉体に、最後にしてあげられることをきっちりと果たすための場。
この石の台座は、なんに使うのだろう。お供えを置くためなのか、収骨に使うのか。
都会の火葬場は、システマチックで近代的で、しかも遺族に配慮した作りになっている。多くの火葬炉は前室が設けられていて、焼け爛れた炉内が遺族の目に入らないようになっている。脱臭、無煙化も完璧だ。
この火葬炉には、そんな近代的な配慮はない。最後まで死を、肉体の消滅を、縁者が直視しなければならない。その儀式に参与しなければならない。
ここは、実は炉の裏なのかもしれない。この小さい扉から燃料を投入し、デレッキ(火かき棒)で焼け具合を調整する。
最下段または中断の扉から、焼け落ちた焼骨を取り出すのかもしれない。ロストル式と呼ばれる、棺を格子の上に乗せて焼き、焼骨は下の受け皿に落ちる方式。昔はこの方式が多かったという。そして燃料は石炭や薪だろう。補助的に油を注いだのかもしれない。
こちらが棺を入れる、正面なのだろう。
さすがに扉を開けようとは思わなかった。
特に西日本では、このような簡易な火葬場は珍しくなかったようだ。集落ごとに火葬場があり、共同体が死者を最後まで送り出す。村八分という言葉のうち、のこり二部は消防と葬式である。仲間外れにしても、この二部だけは助けの手を差し出す。火災を放置すれば大火になる。死者を放置すれば、その魂魄が浮かばれない。また死ねば誰もが仏、ということもあるだろうし、死体を放置して腐敗させることの衛生的な問題もあるだろう。とにかく、死者を送る行事は重視されたに違いない。
このような簡易な火葬炉を見るのは、実は初めてでは無い。長崎の無人島、中ノ島でも、とっくに廃止され放置された火葬炉を見たことがある。中ノ島は世界遺産になって一躍名の知れた軍艦島(端島)の火葬場があった島。軍艦島は炭鉱の島だから、事故で死者が出ることは珍しくなかったし、病死も火災による死者も交通事故の死者も出た。死者は小舟に乗せられて、中ノ島に運ばれ、一晩かけて荼毘に付された。お骨はそれぞれの故郷に戻り、無縁仏は納骨堂に納められた。その納骨堂も、中ノ島に残っている。
軍艦島には寺はあったが、火葬場と墓は無かった。炭鉱という産業の興りと共に栄え、産業の衰退とともに無人化した端島もまた、死を共同体から排除した都市だったのかもしれない。