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混ざらない海水の突然の冷たさに触れ

秋雨降りしきる合間に、垣間見る満天の星々に、こんなに宙は近かったかと思いを新たにする。首都高を照らすオレンジに、浮かび上がるネオンサイン。都会の狭間に現れるオリオンに、これだけ圧迫と畏怖を感じるのだから、なににも邪魔されない、原初的な大地に降り注ぐ星空は、まるで宙に浮かぶようだっただろう。毎年訪れる夏は思いの外暑く、そしてまた想像より少し寒い冬がやってくる。

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残暑厳しい折、近所のコンビニ+スーパーみたいなところで、長芋とオクラと刻みネギと茗荷と紫蘇ときざみ納豆と温泉卵とささみと、そして流水麺(ソバ)をカゴにお会計をしたら、美味しそうですね、と帰り際に言われた。咄嗟に言葉が出ず、曖昧な笑顔で肯定しながら店を出る。

今秋始まった『安達としまむら(©入間人間)』を観ていて、ふとこの遣り取りを思い出した。ピンポンや釣りに言葉は要らない。でもそこには"communication"があり、"relation-ship"が横たわっている。

"百合"、"sister-hood"、つまりはSOGIに棹指す作品群の魅力をいえば、"sudden-death"に尽きるだろう。"私的な潔癖"の垣間にみえる、punish(懲罰)、vanish(不可視)、banish(追放)、mannish(?)、それら全てを併せ持つ、すぐ隣り合わせにある"死"の予感。不浄より掬い上げた金魚は、掌の上でビチビチと跳ねる。それはまるで心臓そのものを取り出したかのよう。束の間訪れる色めき。やがてそれは諸手の内で、脈打つ力は次第に弱くなっていく。そうして枯れた花殻を棄てるように、生臭い記憶をトイレから流す。そんな連続するspectrumを、どこか後ろめたさと共に感覚する。もう一方にあるのは、食われる獲物が"無"を受け入れる瞬間の、痙攣とともに目の光を失う様。

〆   〆   〆

『身分違いの恋="romantic-love"』の系譜が、(時を経るにつれ)後講釈的にその界面に"様々な二律背反"が読み込まれていく。畢竟、結婚が前傾化することで、つまり『結婚するからこそ、真実の愛』という短絡・逆因果の帰結をみせることで、"romantic-love illusion" ≒『恋愛教』は完成する。これを逆位相からアイロニカルに仮構するのが、"逃げ恥"をはじめとする作品群、つまり『ガワを先に持ってくることによる"真実の愛"の炙り出し』に類する一大ジャンルの隆盛といえる。

ある種の孤独感を引き受けることは、即ち孤立することではない。これは行動規範として"Reasonable"だろう。谷川史子の作品群には、論理的に違背せず、つまりは線を挟む同位相として、これの逆を貫く女性が多く登場する。一見、孤立化してるように見えて、その内に掛け替えのない豊饒の想いを抱いている。孤独を引き受けるも、孤立に至るのも、実際何が正しく、合理的で、悟性ある態度なのか、外見からは何もわからない。或いは本人でさえ、当事者であればこそ何もわからないのかも知れない。結婚と恋愛と生活という三つ巴は、もしかしたら全てちょっとずつ切り離した方が、うまくいくような気がしている。

"一盗二婢三妾四妓五妻"というロッカールームトークや、"痴漢trigger"なる仄聞がある。個々別々の中身には触れない。これらはいわば、『界面に読み込む"二律背反"』の下位layeredであり、それぞれがそれぞれ好ましく思う"ボタンの推し方と順番"を選べばいい。ただし、それら社会的な属性に嗜癖し、隷属することを決して"動物"とは呼ばない。それは、動物の成れの果てであり、そんな残飯漁りの"spoiled-bear"を擬らえる姿は、とても"人間らしい"といえる。

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我々は遺伝子の方舟であり、内分泌系の使唆する拐かしから自由になれない。これらは防御を彩る鎧であり、同時に拘束具でもある。だが、これは希望だろう。"Oxytocin"の発見は、"母性本能"の自明性を突き崩し、それがもたらす『社会的な功績』にノーベル賞は贈られた。これらを徹底的に踏まえるからこそ、医療や法曹の関係者は、その専門性において再帰的な関わりをみせる。医療者は分娩後の母子の抱擁をなんとしてでも実現するし、先進国標準の痴漢処理のスキームは、その不作為を放置する鉄道会社に一義的な責を求める。

メゾ領域(middleの派生語は"media")が伝えるべき有用性は、その社会的機能、つまり"Oxytocin"においては『"母性本能"の否定』にあり、我々はメディアを通じ粗末な"理科の授業"を受けたいわけではない。ある種の必然性信仰を、偶然の賜物である、と解きほぐしていくことこそがミドルマンの役割であり、早押しクイズに役立つ『カタカナ語の棒暗記』を幇助していくことではない。ましてやα語り(生物学的α=art=artist cluster)を旨とする、"フレーミング"設定能力の高い映画において、『それでも僕はやってない』という誤読の誘発は、リソースの無駄使いというほかなく、『有罪率99%』の起訴便宜主義("後進国"に埋設される行政コスト節約スキーム=パターナリズム)に伴う司法制度の"宿痾"を告発するなら、"痴漢"というあざとい惹句に寄りかからずとも、幾らでも他で代替可能である。痴漢には冤罪が埋め込まれている、或いは、属人格的なメンタリティの問題、という矮小・短絡化によるミスリードの方が遥かに深刻で、これには生活保護の『不正需給問題』と似たspinを思わせる。

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不正需給問題を告発するなら、生活保護制度の『捕捉精度』を上げることで自ずから解決をみせる。つまり補足率を上げれば済む問題だが、そうはしない。悪目立ちするフリーライダーにfocusし、斥力引力図式による瞬間風速を目指す。お題目で唱えられる「一罰百戒的な行政コストの圧縮」に科学的根拠はなく、これにより未補足率上昇による社会保障制度の不徹底が呼び寄せるsub-effectは、予期せぬ社会的な撞着をみせる。要は社会不安に駆られ『正義のヒーロー』に縋る"spoiled-bear"の量産・放逐、或いはメディアが使唆する『自粛警察』等の拐かしに無批判に追従してしまう。これは、"増税論"周りのspin-control看取にも援用出来る。徴税主体は『税率のコントロール』のほかに、場に顕さないカードを持っている。つまり税率以前の、税金の"補足率"を上げれば大方の増税論議は退けられる。横たわる複雑怪奇な控除の仕組みとは、単数形では、フェアネスを担保せんとする官僚ひとりひとりの生真面目さによる、複数形では、"無謬の原則"に棹指す"行政官僚制の逆機能"に帰結する、制度設計の傾きである。『巨悪』があるのではない。制度的惰性体、つまり不作為(ネグレクト)があるだけだ。放置すれば、整合性(下方硬直性)に基づく"法律コードの自動生成"が進み、忖度を呼び寄せる『姿無き権力』として、自律的に駆動―永久運動―し続ける。

"マイナちゃん"こと、ずっと昔から日本に住んでいたシロウサギの妖精とは、名目・形骸化する、家族や結婚の実質的な機能や必要性を再確認的に浮かび上がらせる"game-changer"なのだが、そんな『剥き出しの家族ゲーム』の到来をメディアはあまり報じない。

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