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『や君外沙て』

『やがて君になる外伝ノベライズ 佐伯沙弥香について(入間人間)』

読了して思うのは、「七海」と「佐伯」は交わらないという、"自然の摂理"にも似た感慨だった。もしも言葉にするなら、七海燈子は「唯我独尊」、佐伯沙弥香は「融通無碍」。やり方は違えど、それぞれがそれぞれに、"個"を引き受ける強さを持っている。持ってしまっている。佐伯の七海を想う眼差しは変わらず、七海はそれに"応えない"と応えることで、「七海」で在り続けている。良/悪や正/否を超えた、あるいは"真善美"とも違う、秩序のようなもの。わたしは当初、沙弥香の在り方を否定していた。『正解』から嵌めて臨む態度は不遜、因果律を間違えている、と。結果、間違っていた。作中にて、少なくとも"果実"は得られなかった。でも今は、その"間違い"も含めて「正しい在り方」であったように思える。それくらい"佐伯沙弥香"という存在は普遍で、誰の心にもいる。彼女を間違っている、と断じることは出来ず、『正解』を求め、果てしない撞着をし続けて欲しい。

その痛みと失敗を少しずつ切り取ってつぎはぎして、今の私がいる。
そうして身体の全てが痛みに置き換わる前に、安寧を見つけられたことに、とても、安堵する。
そういうことを、幸せと呼ぶのかもしれない。
(「やがて君になる 佐伯沙弥香について(3)」入間人間)

佐伯沙弥香の"佐伯"とは、「再帰性(=Reflexivity)」の音感に由来する類推(=ダジャレ)ネーミングかも知れない。そう思うくらい、この小説には『再帰的"佐伯沙弥香"』に溢れている。佐伯沙弥香のトリセツみたい、と思い、なるほど「佐伯沙弥香について」だったと思い直す。佐伯沙弥香は、想像以上に『佐伯沙弥香』だった。このスピンオフ作品において、"佐伯沙弥香"は『 恋愛体質』であることが判明する。1巻目、小学~中学のくだりにおいて、"欲動(=drive)"に振り回される"過去"が明かされる。高校2年次(="本編"と平仄が合う)に始まる2巻目の沙弥香において、自らの"恋愛体質"を剔抉した上で、"融通無碍"の佇まいをみせる今の、二度は再現出来ぬ"石積み"の跡が披瀝する。それがいわば、彼女の依代にする"優しさのカタチ"であり、清と濁、併せることなく飲み込んでいる"佐伯沙弥香"の"為人"が見て取れる。一心に誰かを想い、それが途端に叶わなくなる。自分の意志で選択したのに、振り返れば被害者意識ばかりが募る。純粋とは言えない。でも、決して不純なわけではない。内的には正しくありたいと思い、外的には『わたしは悪くない』が先立ってしまう。傲岸不遜に振る舞うようで、実のところ、只の"いぢましい"女の子。"純度の高さ"が、佐伯沙弥香の強みであり、支えるように脆うさにもなっている。自律のための自律は寒々しく、他律のための自律は、"共振"して周波数が狂いだす。求められるのは"他律に資する自律"であり、たまたま同調しただけ、という『期待されない期待』が期待される。それを真っ直ぐ叶えようとする「佐伯沙弥香」は、なんて‥"沙弥香"なんだろう、と思う。

入間人間先生は、"優しさのカタチ"という表現をする。『や君外沙て』において、1巻では「佐伯沙弥香」の、2巻では「小糸 侑」の、それぞれのもつ"優しさのカタチ"が、輪郭鮮やかに浮かび上がる。『やが君(本編)』はその劇作りの構造上、どうしても「七海燈子とゆかいな仲間たち」という偏った"重心"(=光の当たり方)になっている。"小糸 侑"が抑えめに描かれているのは、ドラマ性に資する落差(=演技プラン)の為とも言えるが、全体を貫く『七海燈子物語』という"設計上の傾き"は大きい。重ねて"小糸 侑"の、本編での役回りは『真実を映す鏡』。"鏡"が閃くのは"真実"を判ずる時のみで、「小糸」自身の内面語りは、物語要請上のガイドプロット(説明ゼリフ)の域を出ない。それは"対角"を為す沙弥香にも言える。改めて"佐伯沙弥香"を通じて『やが君』を"周辺部"から体感する心文様は、仲谷先生の言葉を借りれば、本当に"贅沢"で、忘れ形見を見るようで面映ゆく、いつまでも拭えない一閃の跡を残す。振り返れば『七海と佐伯』が反目する構図は少なく、その関係性は『生徒会室裏のベンチにふたり』に凝集されているように思う。それくらい七海と佐伯は、同じ方を向いている印象があり、裏を返せば、併走してどこまでも交わることのない二重螺旋。もし間違えて"空虚な蹉跌"を踏んでしまうくらいなら、"空虚な幸福"を選んでしまう。賢しいことが弱点になる逆説を、"聡い沙弥香"は知っている。だが知っていること、理解っていること、出来ること、出来てかつ感動を与えること、は全て違う。"幸福な幸福"は、"幸福な蹉跌"を乗り越える先にある。

巷間言われるように、恋愛は3人から始まる。小糸の「七海"イメージ"」に対する"他の人"との差分を、佐伯沙弥香は見逃さない。それは即ち、七海の「小糸」に対する、他の人との扱いの差を"発見"するに等しい。沙弥香の"目端"の効くお陰で、"小糸 侑"の感性、洞察、そして"優しさのカタチ"に気付かされる。『沙弥香の世界』の物語で、"小糸 侑"と、そこに溶けいる「七海」に、ふと涙してしまう。「七海」が"小糸 侑"に優しく接するのは、"小糸 侑"が"七海の優しさ"を受容出来るからであり、それがいわば"小糸 侑"の持つ"優しさのカタチ"になっている。その時"小糸 侑"は「七海」に、小さい女の子を見ているのかも知れない。仕方ないなあ‥、と。

堺屋太一は「経済」を称して、"沢山あるものは潤沢に、少ないものは大切に使う、人間の持つ『優しい情知』"、と言った。ここで言う優しさとは"orientation"(=方向性)の一種といえる。(情報を、資産を)持つものが、"持たないもの"を率先する際の、オリエンテーションの眼差しを"優しさ"と呼ぶ。それは間違いではないと思う。では、この作品通して言われる、受け取る側(=持たないもの)の"優しさ"とは。

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