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故意に間違うことを止める

『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』が完結する。

渡航原作のライトノベルは、昨年11月13巻をもって一応の結末をみせている。アニメでは、コロナ禍の影響による作業工程遅延と、声優陣の演技収録の困難さから、当初予定の約3ヶ月遅れる形で3rd-seasonが終了する。この"note"は『俺ガイル』に派生する、充足用コンテンツの下地として、当初始めたものだった。よって"コンテンツを眺むる我々"までを最終ラインとし、それ以上の逸脱はないことを念じてやってきた。つまり日々の雑感などは必要最小限に留め、排除してきたつもりである。企画自体はまだ生きており、予断は出来ないが、書くことそのものがわたしにとって望外の歓びになっており、俺ガイル終了後も、もう暫くは続けていこうと思う。


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足掛け10年掛けて見続けてきた作品の、最終回を観てしまえば、やはり何かが変わってしまう予感がするので、最終前夜の今のうちに、残せるだけ残しておこうと思う。ネタバレ有り升。載せるのが怖いと思ったのは、今回が初めてかも知れない。

原作は敢えて6巻迄で留めており、準"アニメ勢"の目論見として正直に申せば、EP.11雪ノ下雪乃エンド、或いはハッピーエンドの顛末を100で予想していなかった。それだけは無いと、完全に思い込んでいた。先読みし、オマージュに反応し、メタファーを深読みし、間違いを見込みつつ、それでもなお徹底して"予防線"を張っていた。つまり起こり得る"否定項"を予測して、ダメージを軽減すべく、"不意打ち"の回避につとめていた。だからこそ、比企谷八幡の"肯定的"な振る舞いに、回避し得ない"不意打ち"をまともに喰らってしまっていた。

比企谷は、"故意に間違えるのを止める"と言った。ここだけ切り取れば、よくあるラブコメの、ありがちな顛末なのかも知れない。でもその裏には、紛れもなくわたしの10年、わたしたちの10年があった。10年間、或いはもっとずっと前から、我々の日々の営みとは、回避するための、"不安"を解消するための、故意に間違い続けてきたウン十年だったように思う。皆、"敢えてやっている"と言いながら、直截な利益に固執し、『負け犬』にならぬよう、勝つために勝つことをわざとらしく"肯定"しながら、ヒリヒリとした渇きを、後ろに後ろにへと先延ばしにしてきた。そんな数十年だったように思う。

大人になる、成熟するとは、反対項・否定項を内在する、つまり"アイロニー"を内化する、長らくそう思っていた。"青春"を謳う以上、青年期の終わりを、それがもう二度とやってこない季節であることを、倫理的に示さなければならない。無論、"表現"である以上『ビューティフルドリーマー』や、『エンドレスエイト』のように、"示さない"示し方もあろう。それに擬らえて、比企谷八幡は、きっとどこかで踏み越えず、絶対に逸脱しないと思っていた。回避しながら、挑戦しないことで"万能感"を保持し、そう振る舞うことでマウントを取り続けるクズであると、あって欲しいと、そう願っていた。だからまさかの踏み越えに、為す術もなく往生し、円環モチーフに回収されゆく次回予告を、感傷の中に眺めていた。ハッピーエンドがこんなにキツいものだと知らなかった。そこには比企谷と共に過ごした、巻き戻らない10年があった。

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小泉八雲の寓する"雪女"とは、"孕み袋"として知らない土地に嫁ぐ、つまりは余所者が、"子を産む機能"と、"人足役割"を携えて、"顔見知り"に収まるまでの、魂と躯の乖離を描写する。"オンナ"が産まれながらに纏う、逃れ無き"傾き"を、共同体外部からの『闖入者』だったラフカディオ・ハーンは、感情込めずに切り取ったのだ。湿度を湛える、この魅力的な妖かしは、小泉八雲が錯誤する、オトコの妄想に寄り添うpornographyなのか、妄想を引き受け安堵する、オンナの"宿痾"の寓話なのか。雪ノ下雪乃が、或いは"雪ノ下"家に集う女が、即『雪女』を擬らえるもの、かどうかはわからない。だが雪乃の住まう高層マンション="ラプンツェル"オマージュ然り、含意する射程は多分にあろう。(※"雪女"翻案 ≒『柔らかな頬』©桐野夏生)

プラグマティズムを、"功利主義"と訳すのは間違いで、『燈(=魂)』と、それを囲う『風防ガラス(=躰)』を寓したもの。これは素朴な"心身二元論"ではなく、また"lookism"への批判と矛盾しない。"見知った世界"のみに閉じこもらないための、論理的な仮構であり、"間違い"を踏まえつつ邁進するための指向(=orientation)をいう。我々は、低エントロピーが呼び込む"情報の淀み"を『記憶』と呼び、"内分泌系"が見せる、緊張と弛緩の反復(=alternation)を、『実存』と呼んでいるに過ぎない。そう、つまりは遺伝子の命ずる(="プラグマ" 派生-英:program)"揺りかご"。

『清濁併せ飲む』が含意する射程は、"清"と"濁"を混ぜてはいけない、というものらしい。頭と尻尾は犬に喰わせろ、ファーストベストはセカンドベストの大いなる敵、そして"魂/躯"のバイナリーコード=つまりはプラグマティズム、これらは全て同じものだ。大人になるとは、成熟するとは、"そうでないもの"を名指しし、仕方ないと嘯きつつ"斥力引力"を誘因し、分断と排除をちらつかせながら、見知った者の間でニヤニヤと口の端で嗤うことではない。無論、ある種の"ダメ出し"は、信頼を前提とする投企や鼓舞の顕れと言える。だが大人になるとは、"故意に間違えるのをやめる"、ただそれだけのことを真摯に、どこまでも寛恕し続けることではないのか。それがわたしの、わたしたちの10年が出した、"答え"とも呼べない何かであると、そう信じている。

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わたしたちは、或いはわたしは、言葉を使っているようで、言葉に使役されている。コミュニケーション巧者であればこそ、「孤独」を深めてしまう"逆説"を、克服する事は出来ない。科学者が"神"の存在を意識するように、言葉を生業とするものは、主従の倒錯と脱構築、無限に続くメビウスに恍惚し、かつ憔悴し、退廃のうちに焼き切れていく。

俺ガイルを通じ観るうちに、由比ヶ浜結衣エンドの可能性をどこかで夢想していた。将来は"お嫁さん"という由比ヶ浜の、oldschoolなシンデレラストーリーを叶えたいのではない。『わたしは全部欲しい』という"強欲さ"を、肯定したいと思った。故意に間違えるのをやめる、のが即正しいとは限らない。衣に刀を入れる、で『初』の字があるのなら、"衣を結ぶ"の名にふさわしいのは、"間違い"以外の全部を包摂する、いわば『~じゃない方』全てだ。プロムでダンスを躍る由比ヶ浜と、"Why not‥"と応じる比企谷が、彼らのピークエンドとは思いたくない。『泣いた赤鬼』の物語は、"青鬼"の献身もさることながら、応ずる"赤鬼"の有り得なさを描いた奇跡だと思っている。俺ガイル中、一番あり得そうで、だからこそ何処にもいない、最も"フィクショナルな存在"は、きっと由比ヶ浜だ。これまで彼女の示してきた感受性の高さは、まさに"赤鬼"そのもの。"何かを得るために何かを失う"、これまで"是"とされてきた、成熟の有り様を否定する彼女は、きっと"間違え"ているのかも知れない。でも『"敢えてやっている"と、気付けば皆言っている』ような、気持ちの悪い社会こそ、もはや"間違え"ていると思えてならない。

作家の辻村深月は、"イジメ"という言葉を使った瞬間に、何も見えなくなる、と『かがみの孤城』出版の際答えている。俗にいう、"イジリ"と"イジメ"は同じもの、という見立ては"間違い"で、既に仲いいもの同士のグルーミングを、誰かが"イジリ"と呼んだに過ぎない。イジリを経由すれば仲間意識が芽生える、という短絡は、結果から原因を探る、"見たいように見る"ヒトの、傲慢の露われといえる。"脳研究者"の中野信子が自著出版に際し、『毒親』という言葉が在ることで、救われる人がいる、とその"トリック"を明かしている。映画『シン・ゴシラ』作中、得体の知れない、名状し難い現象に、『名前が"在る"ことが大事なんだ』と、ゴジラという"宛先"が付与される。"UFO"の名が流通すると、UFOの目撃者は増え、"柳の枝"が発見されると、デマゴーグは消える。言葉があるからこそ秩序し、言葉があるからこそ暴走する。

言葉を知ってしまえば、感情に名前をつけてしまえば、擬らえる自縛から免れない。『恋』という"言葉"ほど、傲慢なものはない。その感情を、"恋"と決めつけてしまえば、きっといつか遊離し、必ずまた間違えていく。我々の綾なす心文様は、儚いからこそ美しく、有り得ないから奇跡なのだ。故意に間違えるのをやめる。それがすわ正しいとは言えない。それでもなお孤独を引き受け、痛みに抗う思いがあるなら、美的に鼓舞する、ホンモノを紡ごう。

#oregairu

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