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NEO TOKYO STATE OF MIND(demo)

“やりたいことやるだけ
やりたいことやるだけ
深く考えちゃだめ
やりたいことやるだけ
やりたいことやるだけ 友達とかみんなで
人生が終わるまで やりたいことやるだけ
やりたいことやるだけ
新しい一日 新しい苦しみ
降り続ける繰り返し
ビギーが言ってた Sky’s The Limit
缶詰が晩飯 社会の負け組
買えないものねだったり やりたいことやれない
また金の問題 指くわえるのできない
だから変える現実 涙流すジーザス
このゲームでビッグになるのにドラッグでぶっ壊れる
札をつかむのにサツに捕まる 新しいブツ パケに詰めてる
何か探してる? 何を探してる?”
  --KOHH「やるだけ feat.DUTCH MONTANA」より

【1】「ドアを開けたら 東京は無かった」後のNEO TOKYO計画

 批評再生塾第3期において第19回まで議論を重ねてきた過程を今回課せられた「2020(年代)」という問題設定を通して改めて読み直して/辿り直してみると、ある一つの巨大な空間が口を開けて何やら叙事詩のようなものを呟き始めている。
 ここで私はとりあえず、かつてマンハッタン島に聳え建つ摩天楼群が演じる、より高く上へ上へと競い合って伸びてゆくスカイライン上の物語を代筆したオランダ人に倣って、「ゴーストライター」としての任務を全うするほかないようだ。

 簡潔にそのあらすじを要約するならば、第8回課題〈空間芸術〉の『「みなとみらい」はなぜ「体売らないと生きてけない」と韻を踏んでいるのか? 日本語ラップと“終わらない都市計画”論』では中途半端にしか扱えなかったのだが、1986年のいとうせいこう「東京ブロンクス」(アルバム『建設的』)と磯崎新の「未来都市は廃墟である」、ヒップホップ×建築論の未だ語られざるミッシングリンクについて、引き続き時計の針を巻き戻してみる所から始めよう。

 まずいとうせいこうが1991年に刊行した長編小説『ワールズ・エンド・ガーデン』も「湾岸」地域を舞台にしているという空間の特性に突き当たる。1980年代末〜90年代当時の東京湾岸地域は実際に再開発が盛んに行われていて、ヒップホップやハウスミュージックが日本に輸入されつつあった黎明期のクラブ・カルチャーの拠点になっていた新興のディスコやライブハウスが次々に開店していたという背景がある。

 この小説を執筆するにあたっていとうは「イスラム神秘主義歌謡の帝王、ヌスラット・ファテ・アリー・ハーンとそのグループ」や「ブラック・ムスリム思想をラップで伝道する黒人ラッパーたち、特に宣伝相プロフェッサー・グリフ健在なりし頃のパブリック・エネミー」等の音楽にインスピレーションを得たと巻末で献辞(RESPECT)を捧げている。
 しかし20数年後からの視点で読み直してみると、後書き部分で明示されてはいないのだが、それ以上に文体レベルで当時カリスマ的な小説家だった中上健次の「路地」のサーガからの影響が色濃いように思える。

 そしてバブル時代の不動産屋が暗躍し、ドラッグや「歌舞音曲を禁じたコーランに踊らずにはいられないビートを注入する忌わしい」音楽や暴力が蔓延する再開発地区「ムスリム・トーキョー」に屯った「アーチストやミュージシャンやDJやモデルや編集者やオシャレな不良ども」の群像劇が描かれるこの小説の後半では、謎の予言者の老人が登場して若者を惹きつける新興宗教の「教祖誕生」の物語に発展する。

 ラッパーとしての側面では前述のアルバム『建設的』に収録されている「東京ブロンクス」「噂だけの世紀末」を残している以外に、ベケットの戯曲『待ちながら』を元に人物設定を逆転してみせた1992年の戯曲『ゴドーは待たれながら』(初演はシティボーイズに所属していたきたろうの一人芝居)を読み返すと、1980年代末〜1990年代初頭のいとうせいこうは「世紀末」の終末論にとり憑かれていた事実に改めて気づかされる。

 社会学者の大澤真幸は『ゴドーは待たれながら』の解説文で、核戦争による人類の「終わり」が引き伸ばされる冷戦時代の雰囲気を留めていると述べているのだが、小説『ワールズエンド〜』に続いて戯曲の中でも聖典が引用されているイスラム教の宗派とキリスト教の文明が衝突するのはその約10年後の2001年のことである。

「人類が死に、神一人生き残ったとしたら。
待つ者が死に絶えてしまった後の救世主。
はたで見ていてそれほどおかしいものはないだろう。
もちろん、はたで見ている者がいればの話だが。
いない以上、誰も笑わない。」
(いとうせいこう『ゴドーは待たれながら』より)

 いとうせいこうだけがこのような近未来の黙示録的啓示を受けていたわけではなく、大澤真幸が『虚構の時代の果て』でオウム真理教が実行した地下鉄サリン事件が起きる前後に繁茂した「ハルマゲドン(最終戦争)幻想」を思想史的な観点で分析しているように、ポップ・カルチャーの中で同時多発的に描かれてきたものである。
 例えば大友克洋の漫画(後に大友自身がアニメ化した)『AKIRA』は第三次世界大戦が勃発した38年後の2019年、東京湾に再建された未来都市を舞台にしているのだが、かつての東京の街が廃墟と化したままの内陸の「旧市街」では2020年の東京オリンピックを目前にして都市再開発が進められているという設定を想い起こそう。

 2014年に刊行された雑誌『BRUTUS特別編集 大友克洋 2012年→2014年 再起動、そして。」に載っている、建築史家の五十嵐太郎による解説「大友作品の鑑賞講座 第1講 都市と建築論。」を紐解いてみると、「物語の舞台となる東京湾上の人工都市・ネオ東京は、既に多くの方が指摘されているように、メタボリズム運動を参照したものです。」と重要な種明かしになっている一節があったのだが、さらに遡ると『AKIRA』が連載中だった1988年に当のメタボリズム運動に関わっていた建築家・黒川紀章は、大友克洋が描いたネオ東京について、このようにコメントしている。

「未来の出来事は、すべて廃墟からはじまろうとしているのである。
面白い都市はいつもどこか廃墟に似ている。統一的な脈絡がなく、歴史の証言としてのサインやシンボルに溢れ、秘密と危険の嗅いがする。
(中略)
 金田や鉄雄達は、橋をオートバイで渡ることによって、未来と過去、未来都市と廃墟を行き来しているが、江戸の街もまた、橋を渡ればそこは非日常的世界の展開する場が開けるところであった。吉原といった非日常的な感覚の世界は、橋を渡る、あるいは門をくぐることによって到達できる別の世界であった。
 そして、そのような通りにおける傾き者(かぶきもの)達のケンカは日常的な出来事であった。
 さて現在の東京はどうか。私の視点からみると、パリやニューヨーク、ロンドンに比べてかぎりなく廃墟へ近づきつつあるのではないかと思う。
 確かに東京は新しい建築で埋めつくされている。それなのに、東京はとても統一されているとはいえない。この雑然さかげんは、徹底すればもう少しで廃墟の条件に近づく。
 年ごとに、あやしげで危険な臭いも増している。あと決定的に欠けているのは、橋を失ったことだ。橋のむこうが非日常的世界であるという、そういう日常と非日常を結ぶ橋、過去と未来にかける橋がない。
 『AKIRA』のネオ東京のもつ決定的に重要な予見は、この橋の構想にあるのだ。
 東京湾は、東京の子宮である。
 子宮には新しい未来の種が宿されなくてはならない。私の東京湾新島の構想は現在の東京をそのまま保存し生きた廃墟にする構想なのだが、その点において大友克洋の『AKIRA』の構想と逆説的に一致する。
 2019年のネオ東京が相変わらず日本人の街だという想定は誤りである。私達のグループの想定では2015年までに日本全体で350万人、首都圏で150万人の外国人が住んでいる。
 ネオ東京の人口の3人に1人は外国人と想定してみるともっと登場人物も面白くなるばかりではなく、国際的な陰謀に満ちたあやしげな臭いのするストーリーになったのではないか。
 現実の話になるが、いよいよ東京湾新島も実現に向けて動き出すことになるだろう。
 『AKIRA』をつくったクリエーター達にもいよいよ出番がやってくる。大同団結して、未来的で廃墟的で、健康的で、あやしげな東京をつくろうではないか。」
(黒川紀章「廃墟こそ未来都市」、『ユリイカ 特集*大友克洋』より)

【註】丹下健三らの東京計画1960について詳しくは、批評再生塾第3期の谷頭和希による論考「湾上のレコンキストたち」も参照。

 ここで興味深いのは、東西冷戦末期の「核戦争による終末論」的想像力を背景にした架空の人工都市・ネオ東京からヒップホップ・カルチャーが生まれたアメリカの大都市へとイメージの伝播が生じている事実である。
 1988年の劇場映画版は「ジャパニメーション」と称されて欧米に輸出されたので、大友克洋の『AKIRA』から引用した「金田と鉄雄」「NEO TOKYO」は海外のラッパーもしばしば使うフレーズである。
(※ラップの歌詞にコメントをつけて注釈・解説を共有するウェブサービス「GENIUS」の記事を参照。)

 ざっくり言って物語の設定からして実際にラッパーたちが「裏稼業で稼ぐ」逸話の舞台となっているスラム街の風景と親和性が高い。
 例えば『AKIRA』の世界観にインスパイアされて「Stronger」のミュージックビデオを作ったカニエ・ウェストは、鉄雄をイメージした衣装に扮していることが指摘されている。

 荒廃した未来のスラム街でドラッグの過剰摂取により廃墟の建物よりも強大なバケモノと化して膨張する少年=鉄雄が、アメコミのミュータントやTVゲームの格闘キャラと並んでアメリカのラッパーがリリックを産み出す想像力の源泉になっていることは、1970年代の初期の漫画ではその音楽にまつわる楽器やレコード等に囲まれた生活の痕跡をコマの端々に書き込んでおり、ベトナム戦争以降のカウンター・カルチャーを背景にしたジャズやロックの影響を受けている嗜好を隠していない大友克洋にとって思いがけない隔世遺伝だったに違いない。
 『AKIRA』はその後、偽物のロゴアイテムが出回るほどストリート・ファッションでは御用達の扱いになっているブランド・ Supremeが大友作品のイメージを取り入れた2017年の秋冬コレクションでコラボレーションを果たしている。

“HIP HOPがこんなにデカくなるなんて
思ってなかっただろ?
俺のライムは超タイト。
だから今、スポットライト浴びてんだ。
今や超稼いでワールド・トレード・センターも
ふっとばすくらいの勢い。
生まれたときはちっこくてさ、勝ち組とは正反対の
生い立ちだったけどな。
イワシの缶詰がディナーだったの、忘れもしねえ。”
  --The Notorious B.I.G.「Juicy」(和訳:渡辺志保)より

【2】 ラッパーが「デカい」時代の果て、BIGGIEの朋輩たち

 さて、幼児退行と巨大化が同時進行しながら可愛らしい無垢さを纏ったキャラが大都市を破壊するカタストロフィーは、1990年に完結した大友克洋の『AKIRA』や1983年の『童夢』のような漫画・アニメから翻って前世紀末のハリウッド映画においても繰り返し現れているイメージなのだった。
 1984年公開の『ゴーストバスターズ』では、ニューヨークの地下に封印されていた悪霊を退治する心霊駆除の業務に失敗した主人公4人が呼び出してしまった「世界に終末をもたらす破壊の使者」が彼らに選ばせた「恐怖のイメージ」に乗り移るという試練を与える場面で「偶々頭に思い浮かんだ無害そうなもの」に姿を変えたマシュマロマンが大通りに出没する。
 他にも1992年のディズニー映画『ジャイアントベビー/ミクロキッズ2』、巨大なアヒルに乗った悪役のペンギン軍団がゴッサムシティを襲う『バットマン・リターンズ』……等々枚挙にいとまが無いわけだが、筒井康隆のSFを原作にした今敏監督の長編アニメーション『パプリカ』の幻覚的な一場面では、巨大化した日本人形やおもちゃと人間が合体した妖怪のようなもの達が大通りを埋め尽くしてビルを破壊しながら進行するパレードの一群に、普段はハドソン河の中洲からニューヨーク湾を見守っているはずの「自由の女神」が加わっている。

 そのような破壊的な幼児性のイマジネーションが噴出したのが、東西冷戦が終結した直後の1990年前後である年表に注目してみよう。Back to the 90’s。

 ヤンキー(不良)でもないのにワルぶった海外のギャングスタ文化に憧れてわかりやすい形から真似しようとするワナビー像を抉った入江悠監督の映画(+深夜ドラマ)『サイタマノラッパー』でも「ニッポンの片田舎に住む若者たちがHIP HOPに人生を賭ける青春」として戯画化されているように(コメディとしても典型的な、駒木根隆介の演じる気弱でいじめられ気味のデブ少年・MC IKKUがラップに出会って一念発起する物語である)、このシリーズが始まった2000年代以前のB-BOYのトレードマークだったオーバーサイズのファッションと合わせて、ある時期までのヒップホップ文化はサウンドが太い・重い、歌詞が誇示する主張の態度がデカい、といった存在感をアイデンティティにしていた。

 実際の体型はともかく、ラージ・プロフェッサー、ビッグ・ダディ・ケイン、FAT JOE、そして彼らをお手本にして日本語のラップを始めたDEV LARGE(ブッダ・ブランド)、BIG BEN(stillichimiya)といったように名前をランダムに挙げても、1990年代半ばを黄金期とするラッパーたちの「デカい」ことを誇る存在証明は枚挙に暇がない。

 その代表格といえる巨漢のラッパーが、ブルックリン出身で別名ビギー・スモールズを名乗るノトーリアスB.I.Gである。
 2018年3月から遡って21年前の1997年3月9日、音楽業界と(彼らがリリックのネタにしていた)ギャングスタ集団のつながりをメディアが過剰に煽った結果収集がつかなくなった「東西抗争」で没するビギーは190cmの巨体が親しまれていた。

 そのラスヴェガスで起きた襲撃事件の直後に発売されたセカンド・アルバム『ライフ・アフター・デス』は全米で1000万枚を越える売り上げを記録し、死に始まって死に終わる円環は、「抗争」の犠牲者となったビギーと2PACの両名を90年代ヒップホップの「教祖」へと祭り上げた。

 死への覚悟(『Ready to Die』)と死後の生(『Life After Death』)、生前にレコーディングされた2枚のアルバムが過激な性急さで打ち出しているように、あらかじめ自身が惨劇の対象として狙われることになる虚ろなメディアイメージの終幕を予告するかのようにして、死相を纏った決断主義的なペルソナを演じていた。

 存命中に2枚のアルバムを残しただけの絶頂期に元々は友人だった2PACの陣営を挑発したことが発端で抗争の凶弾に倒れるに至る物語を映画化した『ノトーリアスB.I.G.』は2009年に公開されている。
 この作品を観てわかるのは、Fuck,Bitch,Shitを連呼してメイク・マネーする過激で暴力的な「未成年者には不適切な」歌詞、であると視聴者に勧告する全米レコード協会による検閲のシールが貼られていることを逆に誇示するジャンルでもあるギャングスタ・ラップの担い手たちにとっての「父親の不在」である。

 母子家庭でジャマイカ移民だった母親の顔色を伺う真面目な少年だったため、地元の街角では「デブでブサイク」とからかわれていた時代からラップバトルで頭角を表すようになるわけだが、ストリートのドラッグ・ディーラーを本業にして生計を立てていたためラップは遊びのつもりだった。……というような伝記の1ページで語られているのが、拳銃不法所持でビギーの身代わりに罪を被って実刑判決を受け、出所した幼なじみと「俺らには 手本となる父親はいなかった/自分で考えるしかなかった/成功ってのは ステージ上だけじゃないぞ」と会話を交わす一場面がある。
 ビギー自身は2人の兄妹と1人の娘の父親になったわけだが、結局シングルマザーを2人増やす結果を迎えており、平和な家庭を築くことには失敗している。皮肉な運命の反復。

 さらに後輩ラッパーとしてリル・キムを育成しようとした顛末も容赦なく映像化されており、セクシーかつ攻撃的な「怒れる女性ラッパー」として今なお現役のリル・キムとの師弟の一線を超えた爛れた関係が描かれている。言うなれば、ヒップホップ・カルチャーが日本に根付くまでの過程である時期までのステレオタイプだった「モテるデブ=ラッパー」としてのキャラクターを確立したのはビギーだったのだ。

 ところで「デモ抗議にヒップホップのパフォーマンスを取り入れた」という評が定着しているSEALDsの学生運動に教員として直接・間接的に影響を与えた佐々木中は、『切り取れ、その祈る手を』の中でヒップホップ文化における「母」の呪縛をこのように強調していた。

「KRSワンという偉大なラッパーをご存知ですか。彼は日本語ラップにも大きな影響を与えた、しかしどういうわけか原典も翻訳も絶版になってしまっている『サイエンス・オブ・ラップ』という本の結論で、次のように言っています。女性的なるものこそが創造的な思考を代表するものであり、母親しかいない環境で育ったアメリカに暮らすアフリカ人の子どもたちが創り出したものであるからこそ、われわれの音楽は創造的であり続けているのだ、と。大都市の貧困層においては女性の影響こそが圧倒的であり、それがヒップホップの創造性の源なのだと。驚いてはいけませんよ。確かに、一部のアメリカのヒップホップの男尊女卑的な詞に対する強い拒否感はわかりますし、私もその感情を共有しています。しかし、前述したムハンマドの事績と同じ事でね。」
(佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』より)

 ここで一旦、ブロンクスの路上パーティーでDJクール・ハークが史上始めてブレイク・ビーツを披露した事実に因んで1973年8月11日に「誕生日」の日付けを持つヒップホップが誕生する前史に遡ってみると、1960年代のニューヨークは「母性」に基づいた再開発反対運動が勝利した都市だった、という精神分析的な仮説に迂回してみたい。

 柄谷行人が『ジェイコブズ対モーゼス』の書評で「モーゼスは60年代に、ローワーマンハッタン・エクスプレスウェイを建設しようとして、再び、ジェイコブズの反対運動によって挫折し、完全に没落してしまった。彼女がいなければ、モーゼスは勝利したかもしれない。そうすれば、ニューヨークは地下鉄やバスのない自動車化した都市になっていただろう。」と記しているように、一介のジャーナリスト兼主婦だったジェイコブズが「多様なものが混在していた都市を、商業区や住宅区に分け、それらを高速道路網でつなぐ現代都市のプランニングである。これは、ル・コルビュジエの「輝く都市」に示されたモダニズムの都市理論にもとづくものだ。」を阻止する住民運動から得た都市の観察を纏めたものが「自然成長的な多様性こそが都市を活性化することを示した」『アメリカ大都市の死と生』である。(ちなみにこの本を最初に翻訳したのは先述の黒川紀章だった)

 1970年代のニューヨーク市行政の人種隔離的な都市開発(の失敗)とヒップホップ・カルチャーの誕生が結びついているという都市論的背景について、ジェフ・チャンの浩瀚な歴史書『ヒップホップ・ジェネレーション』でも簡潔に触れられている。

「この大規模な開発を一手に引き受けていたのは、ロバート・モーゼスという男だ。彼は歴史上、最大の権力を誇った都市建設家である。彼は白人をブロンクスから郊外へと移動させたのだった。/
「ブロンクスをはじめ、ブルックリン、マンハッタンに存在するスラム街は修復不能である。これは真実として認めざるを得ない。これらのスラム街は、再建、修復、復元の域を超えており、取り壊すしかないのだ」
 しかし、もっと率直に見解を述べる者もいた。ラトガーズ大学の都市政策センターで所長を務めるジョージ・スターンリブ教授は、「サウス・ブロンクスなしでも世界は立派に機能できる。あそこには、人々が愛しく思うもの、かけがえのないものなど存在しない。そのうち、サウス・ブロンクスには装甲車で行かなければならない、なんてSFのようなことが起こるかもしれない」と述べている。」
(ジェフ・チャン『ヒップホップ・ジェネレーション』より)

 一方でグラフィティ・アートの影響を受けてアーティストとして活動している大山エンリコイサムは著者『アゲインスト・リテラシー』で、ヒップホップが誕生したブロンクスという空間を都市論・メディア論の知見を駆使して読み解いている。
 1980〜90年代初頭までのニューヨークの地下鉄という「アート界で有名性(フェイム)を勝ち取っていくゲーム」が成立したある時代のある環境が黄金期だったと整理されるのだが、なぜそこが「特別な空間」と化したのかの歴史的背景を辿る章で、1970年代以降にニューヨーク都心がスラム化する原因を作ったことで悪名高い都市計画家ロバート・モーゼスの画一的なグリッドによる再開発計画を「創発的な多様性を失わせる」と批判した活動家ジェイン・ジェイコブズが『アメリカ大都市の死と生』で主張した「都市の子供たちは、遊んで学習する多様な場所を必要としています。」という言葉を引きつつ、行政のゾーニングによって消滅した「街路の遊び場」の空間が「壁」や「地下鉄」へと折り畳まれ、分散していったのだという分析には感銘を受けた。

 そこで紹介されているジェイン・ジェイコブスをリーダーにした抗議活動は「 母親たちの集会」「母親軍団」と呼ばれて当時の行政担当者に恐れられていた。
 モーゼスが画策したワシントンスクエアパークに車道を通す計画案を中止に追い込む反対運動を成功させた1958年代頃から始まった市民闘争は、著名な芸術家や作家が集ったグリニッジ・ビレッジの公共広場を主戦場に活動は全米各地に拡大して行き、1961年刊行の主著『アメリカ大都市の死と生』に結実する。
 1950年代までにアメリカの主要都市を席巻していったモダニズム建築の理論に基づいた大規模な都市計画の問題点を、実際に再開発に巻き込まれる地域住民の視点で喝破しているわけだが、怒りに満ちた口調でジェイコブズは「今日における都市再建の経済的合理性というのはでっち上げである」と断言する。

 ところで死後に企画された作品も含めてノトーリアスB.I.G.が遺したアルバム4枚を聴き直してみると、リリックの中の回想だけでなく子供時代の一場面を再現するレコーディングにまで参加してことあるごとにビギーのラップに介入してくる母親=ヴォレッタ・ウォレスの存在感の執拗さである。

 3枚目の『ボーン・アゲイン』ではビギーの名義であるにも関わらず本人の声は一切無く、ウォレス夫人が先立った馬鹿息子に代わってリスナーの皆様に感謝のスピーチを述べるだけの曲「Ms.WALLACE」まで収録されている。

 マンハッタン島にそびえ建つモニュメントの一つであるリンカーン・センターを代表作に、低所得層の立ち退きのリスクにも物怖じせずに半世紀以上に渡って強硬なスクラップ&ビルドを推し進め、ニューヨーク市の「マスター・ビルダー」と崇められた公園局長・モーゼスのような父性を獲得することに失敗し、母の重力圏から逃れられなかった、という物語の続きは残念ながら中断しなければならない。

 荒ぶる「母」の声をルーツに持つヒップホップがどのようなサウンドを生み出すのか。ここまで時間の許す限り胎動して迫り来るNEO TOKYO State of Mindの粗い叙述を試みてきたが、このデモ・バージョンの続きはいずれ別紙で書き継がれることを予告しておきたい。

【後記】2017年度に開講されたゲンロン批評再生塾第3期の最終課題(キーワード:「2020年(代)」)に向けて書かれたものです。

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