ハンナのカバン
ユダヤ人で生き残ったジョージ・ブレイディさんは
「私たちはどこかで憎しみの連鎖を止めなければならない」
と言っていた…
憎しみやストレスを自分の中に留めておける人ばかりだったら世の中もっと平和だったのかもしれない。
・ハンナのカバンとは?
一つのカバンがありました。
昔ならどこにでもありそうな革製のカバンですが、上に大きくペンキで書かれている文字が目を引きます。
「ハンナ・ブレイディ、1931年5月16日生まれ、孤児」
カバンの持ち主はチェコ生まれのユダヤ人少女です。収容所のガス室で亡くなった時13歳でした。
2000年の頃、このカバンは展示品の一つとしてホロコースト教育資料センターに届きました。
・子供達の疑問
カバンには唯一、持ち主の名前が書いてありました。そのためセンターを訪れた子供達は予想以上にこのカバンに関心を寄せました。
「ハンナって誰?」
「どんな女の子だったの?」
これらの子供達の疑問が、ハンナについて調べてみようという事になったのです。
しかし、カバンの持ち主について分かっている事と言えば、
「ハンナ・ブレイディ、1931年5月16日生まれ、孤児」だけでした。
この情報だけで、当時殺された150万人のユダヤ人の子供達の中から一人の少女について調べ出す事は容易でありませんでした…
ところが何度かホロコースト博物館との連絡をしている内に、ハンナがチェコ内に作られたテレジン収容所にいたという事がわかりました。
その後様々な偶然が重なりハンナの兄、ジョージに手紙を送れるようになりました。
「あなたの妹のカバンが偶然、展示品の一つとして日本にやってきました。ハンナとの思い出を私達に教えて頂けないでしょうか?」
そして、カナダからジョージの手紙が届きました。
手紙は妹ハンナとの思い出が書き綴られており、同封されていた写真には、ふっくらとした頬にまっすぐな瞳のハンナが写っていました。
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もう一つ奇跡的だった事は、ジョージが大切にしていた写真の数々です。
ホロコーストを生き延びた人達は、家族の写真など一枚も持ってない場合が多いらしいのですが、ジョージの場合はキリスト教徒の叔父によって家族のアルバムが守られたのでした。
それらの写真のおかげで、大好きなスケートに夢中になっている姿、喜んで母の手伝いをする姿、兄に甘える姿など、ハンナの生き生きとした姿が日本の子供達の前に現れました。
・ハンナとジョージ
二人が生まれたのはチェコスロバキア、モラビア地方のノブ・メストという人口約4千人の小さな町でした。
両親は雑貨屋を経営し、比較的裕福な暮らしを送っていました。
ブレイディ一家はユダヤ人でしたが、両親は特に熱心な信者ではなく二人の子供達は自由な雰囲気の家庭で育ちました。
町ではユダヤ人の子供はハンナとジョージ二人だけ。
キリスト教徒の友人とクリスマスを祝う事もあれば教会に遊びに出かける事もありました。
しかし、1939年3月のナチスによるチェコスロバキア併合、9月のポーランド侵攻、第二次世界大戦の始まりによってユダヤ人迫害がヨーロッパ全土に広がり、ブレイディ一家の運命は狂い始めます。
最初に両親がゲットーに移り住む事になりました。
そして、1941年3月に母が、9月には父が続けて収容所へ送られました。
まだ幼い兄妹はキリスト教徒の叔父に引き取られる事になりましたが、翌年5月には二人にもテレジンへの出頭命令が届きます…
この移送の途中でハンナは11歳の誕生日を迎えました。
テレジンでジョージは親代わりとして妹を守る事に必死でした。また、兄を想うハンナも配給されるわずかな食料を何度も兄のために届けたそうです。
しかし、テレジンで二年が過ぎた頃、ドイツ軍の敗戦も目前という時にナチスはさらにユダヤ人の移送を加速させました。
強制収容所への移送が十数回に分けて実行され、ジョージは1944年9月28日、第一回目のグループで送られました。
テレジンで配管工の見習いとして働いていたジョージは強制労働へ送られました。しかし、その1ヶ月後、最後から二番目の移送で収容所へ送られた13歳のハンナは到着したその日にガス室へ送られ亡くなりました…
家族で奇跡的に生き延びたのは、ジョージただ一人でした。
「両親の死とは何とか向き合う事ができた。過去を振り返らず、前を向いて生きていく事を両親も望んだだろうと考えた。けれども妹の死は今でもどうしても乗り越える事ができないでいる。私には妹を守る責任があったのに、それができなかった。」
半世紀以上経っても、深い悲しみを抱えるジョージの言葉は子供達の心に響きました。
そしてジョージは来日し、57年ぶりに妹のカバンと対面しました。
「ハンナのカバンと日本で再会できたなんて奇跡のようだ。これから未来を作っていくあなた方のような子供達が、ハンナのカバンを通して命の尊さを学んでくれている事を知り、勇気づけられた。」
と、語ってくれました。
さらにもう一枚の写真を取り出し、見せてくれました。それは、カナダにいるジョージの家族の写真でした。三人の息子と、四番目に生まれた娘のララ・ハンナ。そして、四人の孫の大家族を築いていました。
当時家族でただ一人生き延びたジョージから、新しい命が次々と生まれていました。
ハンナのカバンは、一つの命が失われるという事、一つの命が生きるという事、両方の意味を私達に問いかけていました。
・最後に
そんなエピソードがあるジョージ・ブレイディさんが90歳で亡くなっていたそうです。
ご冥福をお祈りします…
参考サイト
https://ameblo.jp/harunairis-theatre/entry-12435731496.html
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