祖父の戦争体験記
昭和16年12月8日(1941年)
太平洋戦争勃発
小学3年生
昭和19年7月(1944年)
集団疎開
小学6年生
埼玉県名栗村 飯能からバス1時間、お寺で集団生活
昭和20年3月10日(1945年)
東京大空襲
自宅焼失
家族の疎開先 宇都宮へ
東京 上野中学入学(無試験)
栃木県立宇都宮中学へ転校
昭和23年3月(1948年)
東京へ戻る
東京都立上野高校編入学
戦争開始後、出征兵士を町で見送った、
戦死した軍人の無言の帰還を小学生が整列して迎えた。楽隊の葬送行進曲の調べが記憶に鮮明に残る。
町中で防空演習、バケツリレーを行った。
空襲に備えて、灯火管制が実施され、家の明かりが外に漏れないように電灯を黒布で覆った事を覚えている。
空襲がない時は平和であった。
三越でお子様ランチを食べたり、墨田川の花火を縁台で眺めたり、東劇でターザンの映画に父親に連れて行ってもらった。
昭和18年4月、アメリカ軍 航空母艦から発進した艦載機による東京空襲があり、戦況も厳しくなり、生活物資が徐々に欠乏してきた。
昭和19年夏、アメリカ空軍B29長距離爆撃機による日本本土空襲が予想され、東京、大阪等の小学生の疎開が強制された。
親戚、実家、知人を頼って縁故疎開、小学5年生以上が、学校クラスごと、地方へ集団疎開が行われた。
当時祖父が居住した日本橋区(現在の中央区)の小学校は埼玉県へ疎外する事になった。
学校に集合し、西武電車に乗り、飯能で降り、木炭バスに揺られて、名栗川のほとりにある疎開先の古びた山寺の曹洞宗・楞厳寺(りょうごんじ)に落ち着いた。
この疎開先の7ヶ月の体験は小学6年生にとって異常な体験だった。
3食は丼一杯の、お代わりなしで空腹は耐え難かった。名栗川で川魚を取り、赤蛙を取り、囲炉裏の中に串を刺して、炙り焼きをして食べた。
甘味に飢えて、歯磨きのペーストを舐めて甘味を味わった。
東京大空襲の時、東の空が真っ赤になるので、我が家は無事か….家族は無事かと、幼心に案じていた。
2月末から、保護者が疎開していた級友をぽつぽつと引き取りに来たので山寺も淋しくなった。
祖父は家族の疎開先の宇都宮に連れられ、一応落ち着いた。
3月に入り、中学受験は非常時であり、無試験で志望校に入った。
小学校の卒業式も卒業証書もなかった。
祖父が山寺を去る時、心残りがあった。
級友N君の事である。実は3月10日の東京大空襲で彼の両親が亡くなり、身寄りもいないので本人にも伝えられず、両親の死を知らないままだった…
このような事情で祖父の学校のクラス会は開かれなかった。
宇都宮の疎開先では、家族で苦労した。
終戦の年の7月に宇都宮も空襲に遭った。東京から持ってきた家財道具が全て灰になった…
空襲の時、疎開先の庭に焼夷弾が落ちた。祖父は5メートルくらいの所に立っていたが、爆風で倒れた。幸い、かすり傷一つ受けなかった。
家から離れ、空から焼夷弾が墨田川の花火のようにゆっくりと上空から落ちてくるのを放心状態で眺めていた。
その印象に残る光景は今でも忘れる事はできません…
8月15日
暑い日、正午、天皇陛下のラジオ放送を聴き、戦争が終わった。
終戦の実感は空襲警報がなく、ぐっすり眠る事ができ、夜でも灯りをつけて本が読めた事であった…
終戦後、物資の欠乏は想像を絶するものだった。トイレットペーパーがなく、新聞紙を使った。靴は貴重品で、盗まれる事は日常茶飯事であった。
冬、素足、下駄で通学した思い出がある。教科書はザラ紙で薄っぺら。墨で消した部分もあるお粗末さであった。
砂糖に飢えて、砂糖壺に手を入れてペロッとやった事もあった。
中学校では、よき先生、よき友人に囲まれ、人格形成の糧となった。
音楽、レコードを竹針で聴いた。未完成交響曲、運命交響曲の震えるような感動があった。
FENの米軍向けラジオ放送で音楽番組を聴いた。
生活は苦しかったが、皆が苦しかったので当たり前だと思っていたのかもしれない…
日本はどん底に落ちたが、後は無我夢中で生活した。
昭和26年高校卒業、大学に進学する。
世の中も落ち着きを取り戻し、未来に希望を持って大学生活を送る事ができた!
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