蓋然性 - 最初で最後の楽章

ちょっと美しい統計学みたいな話を。 可能性 possibility ではなく蓋然性 probability で事象をとらえることに重点を移したらどうかと考えています。 「可能性が高い(低い)」という表現には、切り捨てて顧みないものが多すぎるのではないかという見地です。それであれば、「でない(である)蓋然性が高い(低い)」に置き換ようと試みてみると、正確に拾い上げる対象が全部になります。 加算ですべて処理できるんです。 なんだ、そんなことか、という実感で、既知のような気もします。

前回、「可能性が高い(低い)」という現存の描写には多くの漏れがあると指摘しました。ここで可能性 possibility という単語が使われていますが、よく考えると、ここでいう可能性 possibility は impossibility 不可能性の総計を排除した残滓を上げているに過ぎないことが分かります。「可能性」とは、通常に言われる「起こりやすさ」ではなく、真反対の「起こりにくさ」を表すのが「可能性」possibility。Impossibility を不可能性と訳することは実はかなり不正確で、非可能性の方が適切に思われますが、それでも座りが悪いですね。これは「可能性」という語そのものが有している不正確さが表れているためです。(狂気 insane と正気 sane と同じフォーム)

不可能性をすべて総計して(1未満の小数の乗算で導いた数を加算する)、その解以外が可能性となるという順番で考えているのです、実は。

そこでは計算の簡便のために多くの要素がとりこぼされて無視されている、しかもそのことに意識が向いていない。それが「可能性」を算出するときの本質的な問題です。

だから一応使われてはいるものの、あまり姿を現していない「蓋然性」に注目をし直そう、これを用いて「でない(である)蓋然性が高い(低い)」とすれば、「現象が起こる」を1とし「現象が起きない」を0とするその間を漏れなくカバーできる。という提案です。

「漏れなくカバーできる」とあっさり表記した後、「え?」とちょっと恐ろしさを感じたわけです。「すべてを表記できる」ということですよね。

ここで「自然数」natural numberのことへ目を向けてみましょう。岩波新書で50年以上読み継がれていて今もおそらくカタログに並んでいる、つまり古書店で探さなくとも容易に入手できる遠山啓『数学入門 上・下』があります。この本は冒頭で自然数を紹介し、下の最終章で「複素数 - 最後の楽章」としてアルファベット i を用いて表記する複素数 imaginary number を記して、閉じる名著です。

自然数は指の数から生まれた、石などの個数を数え上げるのに自然数が生まれたのは当然であるといった感じだったように思われます。そして少数・分数・負の数と数字理解を拡張していく歴史をたどります。

自然数は本当に個数を上手に表記できているのでしょうか?浮かんだのが碁盤と碁石です。囲碁盤は宇宙を表していて、そこを碁石で囲むことによって陣地を作り、面積の多寡を競う遊びですね。碁石は自然数に対応するかのように丸く区切れた個体です。しかも1、2、3、4と数えあげられる。

でも漏れがあるのではないか?碁盤が宇宙を区切った一部を提示しているとしても、個数である碁石はとぎれとぎれの存在であって、自然数は表しているとしても、進んだ少数や分数は決して表しません。
そこで思い浮かんだのが、宇宙を覆い尽くす関東風のつきもちですね。碁盤の端までを全部もちでうずめて、そこに等間隔で包丁を入れる。そうすれば、最初から数直線を示すことができる。(一方、碁石に対応するのは西日本の丸もち)

「最初から数直線を示すことができる」とあっさり書いたけど、「あれ?」と注目したくなりますね。そもそもモチの拡がる世界でなぜ最も下の部分に書かれる直線だけを数として認めるのか、たとえ複素数を導入しても、数直線が90°で交差したに過ぎないのに、本当にこれですべてを覆い尽くせているのか?という疑問がきっかけでした。

それで自然数はどのように利用されているかというと、ほぼすべての現存数学が自然数1、2、3、4、5…での表記を用いています、いや、人間が作った自然科学のほぼすべてが自然数での完全表記を目指す取り組みと言えるでしょう。それを指して「宇宙のどこをとっても、同じ定数がみられる」、という驚嘆で数字が語られます。

しかし何で無限数でしか表記できないπ=3.14… や素数 primary numbersフリードリッヒ・ガウスらが整備した微分・積分、果てにはオイラーの定数やフェルマーの最終定理のような、ダイナミックな概念が登場するのか?を思い浮かべた時に、「あ、これは自然数システムが最初から内包している不完全さの帳尻合わせだ」と気づきました。「美しい数学」は、自然数体系が取りこぼした対象を同じ俎上に呼び戻すための永遠の苦肉の策の累々たる死骸の列なのだ、と。俺はしばらく前に書いた「無のへこみ/ふくらみから存在へ」という一文でこう記しておきました。

「超ひもの質量はとひとびの整数であるそうだが、そのとびとびさ加減が「この宇宙」の持つ傾向、癖であり、現世の人間が想定し使用する「整数」は不自然に歪められた数列というしかない。 これは言語において「生成」的 generative に言葉ができていく過程と似ていて、数は generative にあらゆる方向に発生している。私たちの数学はその一つの様を私たちの観測できる癖でイメージしているにすぎない。そもそも「数」「言語」と記したが、そんなものは「無い」という捻くれた態度はあり得る。「有る」として生み出されたのが人間の文明なので、数も言語も無いとする態度は破壊的であるものの新文明を予感させる。」
ほら、見抜いていましたね。「gererative」に数が発生している、と。しかしそれはそもそも数なのか?数という呼称さえ不要な何らかの「アレ」としか言いようがない。

自然科学は「現象(事象)」event を正確に描写しようという務めですが、「現象」ってどうやって定義するの?と考えたら、正確に述べるためには、本当は「現象に絶対含まれない要素たち」をすべて丁寧に排除したものとしか言いようがない。これは可能性算出で用いられる手法では常に十全な正確さに到達できないという点で、やはり数学の劣る点が明らかに示されていることになります。

だから上記の「アレ」という新・数を用いて新・数学を構築するばよいではないか。うっ、でも上記の「アレ」は例えば星の遷移や超ひもとされるものの描写にも数でなくその「アレ」としてそのまま採用できるし、地球上の生物の遷移にも「アレ」として活用すれば、かなり汎用性があるではないですか。そこには自然科学の断章化 fragmentation に見られる学問の箱庭化がない。統合科学です。

おや、上記の「アレ」はまた非自然科学でも活用できるのではないか。ある事象の遷移を述べるのは経済学でも見られるし、社会学でも見られる。なかなかいけるぜ「アレ」。

というのが「アレ」と呼ぶと面倒なのですが、現象の遷移については、その現象「でない(である)蓋然性が高い(低い)」でカバーされた傾向で描写できるよね、すべて。すべて。すべてです。天網恢恢疎にして漏らさず。漏れがないのです。

すると「無・有」、これまでの人間のものごとの捉え方である「我々は有だ」「真空は無だ」が不正確だったことがわかります。「無・有」という両端(確率でいう現象が「起きる・起きない」)はないし、最近まで俺が提唱していた「無の非在」化にしてさえ不正確であることを思い知りました。端部も果てもゼロ点もない望洋と広がるアレの世界(実は「世界」という描写さえ不正確)の中では「でない蓋然性が高い」という装置(実は「装置」という描写はここではトートロジー)が機能(函数という意味の function)し続けて遷移しているのみです。「でない蓋然性が高い」には時間と空間の向きさえ指定はありません。時間も空間も、私たちすでに存在してしまったものには在るけど、本来は無い。ただ、只のみ。

この宇宙、存在、時間の正体という唯一のテンプレートは「でない蓋然性が高い」というものでした。我々や諸々の原型は「でない蓋然性が高い」による推移という表記で言い尽くせる。「無の非在 - 存在を疑い抜く」https://note.com/djthomasjp/n/na593a412952b で記した「存在は、無の非在が故なく発生した結果に過ぎない。無の「あらず、あらず」から導かれた因果が存在なのだ。無がクニュッと破壊され非在となったところに存在は発生した。」の「クニュッ」の正体は「でない蓋然性が高い」でした。

遍く周るあまたのものはみな「でない蓋然性が高い」によるうごきそのものでした。

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