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第2話:過去に縛られる男
ステージのライトがケンユーの顔を強烈に照らす。光の輪の中で、彼の呼吸は浅く、胸が小刻みに上下していた。周囲の熱気が肌にまとわりつくようだが、その熱とは裏腹に、心は冷たい孤独に包まれていた。
目の前には観衆の影が揺れる。ざわめき、笑い声、そして飛び交う冷たい野次。それらが渦となり、彼を飲み込もうとしていた。ケンユーは視線を伏せ、目を閉じる。
その瞬間、瞼の裏に浮かんだのは、Shibuyaの富裕層地区で過ごした日々だった。
Shibuyaの記憶
広々としたマンションのリビングに、柔らかな光が差し込む。高層階から眺める東京の夜景は、無数の宝石を散りばめたように美しく、ケンユーの胸を高揚させた。この場所が、彼にとって「夢を掴んだ証」だった。
そこにはユカがいた。
ユカは裕福な家庭に生まれ育った。両親が不動産会社を経営しており、彼女が住むマンションも親が彼女のために買い与えたものだった。その環境で育ったユカは、何事にも余裕を持ち、都会的な洗練と無邪気さを併せ持つ存在だった。
「KENちゃん、この曲、いい感じじゃない?」
音楽を流しながらリビングでくつろぐユカが、笑顔で振り向く。その目には興味と期待が込められていた。彼女はケンユーのラップに耳を傾け、率直な感想を口にすることをためらわなかった。その存在が、彼を支えてくれた。
ユカと過ごす時間は、彼の中で「自分はここにいていい」という感覚を与えてくれるものだった。Senjuの貧困地区から抜け出し、Shibuyaでユカと共に新しい生活を築ける――それは、彼が胸に抱いていた夢そのものだった。
だが、その夢はある日、突然崩れた。
嘘からの破局
「私、妊娠したの。」
ユカが告げた言葉は、ケンユーの胸に重く響いた。
「どうするの、KENちゃん?」
彼女の目には不安が浮かび、期待と恐怖が入り混じっているように見えた。だが、ケンユーは答えることができなかった。
「ちょっと考えさせてくれ。」
彼がようやく絞り出した言葉は、自分の未熟さを痛感させるものだった。工場の仕事で得るわずかな収入、遠い夢のようなラップの成功、それらが彼の心を押し潰し、未来の責任を担う余裕を奪っていた。
数日後、妊娠が嘘だったことを知る。ユカは「私たちの未来がどうなるか確かめたかった」と言ったが、その言葉はケンユーの心に深い亀裂を刻んだ。
「なんでそんなことを言ったんだ?」
「KENちゃん、私がどんな気持ちでここにいるかわかってないよね。」
ユカの言葉は正しかった。彼の夢ばかりを優先し、彼女の想いを見ようとしていなかった自分がそこにいた。
「お前が幸せになれるのは、俺じゃない。」
そう自分に言い聞かせながら、ケンユーはユカの元を去った。
「さよなら、KENちゃん。」
ユカの声が背中越しに響く。だが、振り返ることはなかった。振り返れば、未練が彼を縛り付けるとわかっていたからだ。
現実への引き戻し
その記憶が、渋谷のステージでケンユーを支配する。
「俺はここで負けるわけにはいかない。」
そう自分に言い聞かせるが、観衆の声がそれをかき消す。
「田舎者は帰れ!」
「お前みたいな奴には無理だよ!」
その声に押し潰されるように、彼の手が震える。目の前には、ティザーが立っている。
渋谷のラップバトル界で知らぬ者はいない存在。BADSLYMEのリーダーであり、この「ブリッジ」を制する常連だ。ティザーは腕を組み、口元に不敵な笑みを浮かべながらケンユーを見つめている。
その視線は、まるでこう言っているかのようだった。
「お前みたいな奴が勝てるわけがない。」
ケンユーの胸の中にわずかに灯っていた希望が、冷たい野次とティザーの視線に押し潰されていく。だが、どこかで声が囁く。「まだ終わりじゃない」。
心の奥で揺らめくその小さな炎が、次の一歩を導く光となるのは、もう少し先の話だ。