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第3話:ブーイングと沈黙
観衆のブーイングが渦巻く中、ケンユーはステージの中央に立ち尽くしていた。彼の胸には緊張と恐怖が絡まり合い、視線はマイクに注がれたままだった。渋谷の観衆は、彼のような地方出身者には容赦がなかった。
「田舎者が何しに来たんだ!」
「Senjuに帰れ!」
「こんなやつ、ステージに立たせんな!」
怒号が次々と浴びせられるたび、ケンユーの中にあった自信は少しずつ削り取られていく。観衆の視線は、嘲笑と軽蔑の混じった鋭い刃物のようだった。その全てが彼の心を突き刺した。
ケンユーは拳を握り、マイクを唇に近づけた。彼の胸には北区で書き溜めたリリックがある。貧困地区Senjuでの暮らし、失った夢、ユカとの破局
それをリズムに乗せて吐き出せば、彼自身の痛みが観衆に届くかもしれない。
だが、喉が硬直していた。
耳の奥で響く観衆の声が、心を蝕んでいく。
「どうした、KENYOU? 早く始めろよ!」
「おい、時間の無駄だ!」
ケンユーは声を出そうと必死に喉を動かしたが、言葉が出ない。唇が震えるだけで、ステージを覆う静寂を破ることができなかった。
その様子を、ティザーは逃さなかった。
ステージ端で腕を組むティザーが、一歩前に踏み出す。観衆を見渡しながら、笑みを浮かべたままマイクを取ると、彼の低い声が会場全体に響いた。
「なあ、みんな。見てみろよ。この田舎者。」
観衆が一斉に笑い声を上げる。ティザーは続ける。
「おい、KENYOU! Senju? ああ、聞いたことある。ネズミとゴキブリのパラダイスだろ?」
その言葉に、観衆は歓声を上げ、爆笑がステージを包み込む。
「で、お前がこっちに来た理由はなんだ? ネズミに追い出されたのか?」
ティザーの声には容赦がなかった。彼の言葉は観衆の笑い声を煽り、ケンユーにとどめを刺すように降り注いだ。
「なあ、田舎者よ。そもそも、お前のラップって何だ? 自分がいかに不幸か語るだけか?」
ティザーが一歩ずつケンユーに近づく。視線は鋭く、笑みは冷酷だった。
「この場所は強いやつだけが立つところだ。お前みたいなヘタレが立っていい場所じゃねえんだよ。」
ケンユーは耳を塞ぎたかった。だが、ステージ上で立つ自分には逃げ場がない。観衆の嘲笑、ティザーの冷たい挑発、その全てが彼を追い詰めていく。
(言葉を出せ……早く言葉を出せ……)
自分に言い聞かせる。だが、胸の奥に広がるのは、過去の記憶と失敗の重さだった。
「田舎者は帰れ!」
観衆の声がまた一つ響いた。その声が、彼の心を決定的に折った。
ティザーは最後の一撃を放つ。
「おい、KENYOU。お前の居場所はここじゃねえ。Senjuの路地裏でラップしてろよ。誰も聞いちゃくれないだろうけどな。」
観衆が再び笑い声を上げ、足を鳴らしてティザーの言葉に拍手を送る。その光景が、ケンユーの視界に霞んで広がった。
ケンユーは静かにマイクを握り直そうとした。だが、手が震え、マイクは滑り落ちそうだった。胸の奥には重い感覚が広がり、それが喉を締め付けて声を押し込めていた。
(ダメだ……俺には無理だ……)
心の中で、何かが音を立てて崩れた。彼は目を伏せ、静かにマイクをスタンドに戻した。
会場が一瞬、ざわめきを止めた。
だが、それは嵐の前の静けさだった。次の瞬間、観衆は爆発するように嘲笑を放ち始めた。
「見たか! 逃げたぞ!」
「Senjuのヘタレにラップは無理だって!」
冷たい言葉がケンユーを追い詰め、ステージ全体を覆い尽くす。その声の中で、彼の姿はライトに照らされながらも影のように小さく映った。
ケンユーは観衆に背を向け、ステージを後にした。
冷たい夜風が顔を撫でる。「ブリッジ」の外に出た瞬間、渋谷の喧騒が耳に戻ってくる。ネオンが鮮やかに輝き、人々の声と車の音が絶え間なく続いていた。その中で、ケンユーはただ一人、世界から切り離されたように感じていた。
彼は壁にもたれ、ポケットのノートに手を伸ばした。その感触が、まだ少しだけ自分に残る希望を思い出させた。
「これで終わりじゃない……」
呟く声は、夜の喧騒にかき消された。だが、その言葉だけが、彼の胸に残る小さな火を守っていた。