サイハテ8周年に寄せて
2019.11.11~11.18
SAIHATE 8TH ANNIVERSARY 8DAYS GATHERING
お好きにさせないよ
何と8周年です!何とかかんとか続けてこれました。。。
ご存知ない方もいらっしゃると思うので、少し説明をしておくと、私はサイハテの最初期の立ち上げメンバーで、誰よりも早くサイハテに暮らし始めた元第一号住人です(※註:当時、工藤家は豊野にあり通いでした)。色々あって今は三角文化生活研究所として独立し、微妙に距離を置きながら管理・運営に少し携わっており、今年は久しぶりの現場復帰で自らキュレーションし、周年祭を開くことになりました。
去年までのサイハテは「楽園」という名の祭でしたけど、今年は「お好きにさせないよ」です。この言葉には二つの意味を込めています。一つは恐らく誰でも容易に想像できることでしょう。それが「お好きにどうぞ」へのカウンターといった側面もあることは否定しませんが、私が考えているのは、むしろ「お好きにどうぞ」の再解釈です。同時に「お好きにどうぞ」をサイハテの教義にはしない、という決意もあります。
さて、これは一体どういうことでしょう?私にとって「お好きにどうぞ」とは、工藤が開村の日に叫んだ、ただの言葉にしか過ぎません。彼と過去にこの場所で「お好きにどうぞ」でやっていくのか否かという話し合いを持ったことはないし、サイハテの合言葉になんてこと、ただの一度も同意したことはないですから。このように書くと、まるで私が「お好きにどうぞ」を全否定しているかのように見えるかもしれませんが、必ずしもそういうことではありません。彼には彼の必然性があった。そのことは一応理解しています。
でもさー、別にお前に言われなくたって好きにするっつーの!(※註:工藤に向けて言ってます)
もう少し踏み込んで書いてみます。「お好きにどうぞ」とは、自然の摂理でしょうか?物事の本質でしょうか?神からのメッセージでしょうか?はっきりとどれも違います。言葉には常にそれを発する主体が存在し、その主体とならんとする欲望がこの言葉を生かしています。噛み砕いて言えば、ただの主導権争い。どこにでもある、つまらない内輪揉めのマウンティング合戦です。要するに「俺が」「私が」「お好きにどうぞ」と言いたいだけなのです。
「お好きにどうぞ」に何かしらの価値があるとするならば、この言葉を受け取った人が何を成すのか、そこから何が生まれるのか、そういうことでしかないのではと私は思います。はたしてこの8年間、「お好きにどうぞ」は一体何を生み出したのか。仮初の自由を与え、赦し、解き放ち、温い共感で緩やかに連帯することが、この言葉の真意でしょうか?既存の価値観を反転させ、自らの手で未開拓の価値を掘り起し、新たな生活文化を模索する、それこそが私達の矜持であり、使命だったのではないでしょうか?
ここは楽園ではないし、田舎の寂れた山の上にある、一時は見捨てられさえした、ただの村でしかなく、未曽有の人口縮小社会へと突入していく日本の、さらに辺境にあるこの地には、最先端の課題や可能性が数多く眠っているはずです。
「お好きにさせないよ」では、私なりに考え、様々な参加型コンテンツを用意し、沢山の人が楽しみながら創造性を発揮できる場を用意してみました。
人を動かすのは言葉ではなく、あなた自身の意思である。
それでも、できれば一緒に手を取り、共に楽しみたい。
そして、あなたにここに居てほしい。
「お好きにさせないよ」に込めた、もう一つの隠された意味を、この場で少しでも何か感じていただけたら、これに勝る喜びはありません。
※サイハテは、熊本県・三角にある、およそ30人ほどが暮らす山の上のコミュニティ。2011年11月11日開村。