【連載】日本のストリートボール史 vol.4
- FAR EAST BALLERS誕生編 -
※個人の記憶を奔放に綴った内容ですので、事実と異なる点もきっとありますがご容赦下さい。
いよいよ“日本のストリートボール史の幕開け”と言える2003年が到来。
佐々木クリス(CHRIS)、柴山英士(AJ)、青木康平(COHEY)という結成時のメンバーが揃い、専修大学バスケ部の選手達の力も借り、CLUB ASIAと山嵐ツアーファイナルでのBALL ROCKIN' SHOWを敢行。
現在見返したのなら余りに拙い内容だと思いますが、当時自分達が考えうるあらゆる手段を使って、ストリートボールの魅力をステージ上で表現しました。
そしてこのタイミングで、AND1 河合さんのご厚意により、憧れのAND1製品の衣装提供も実現。
自分も“これってタダでいいんですか”と戸惑いながら、あのキャラクターが悪態をつくロンTや、ネイビーにオレンジラインのセットアップを手に入れたのでした。
活動が本格化すると同時に、関わる人間も徐々に増えていきます。
CLUB ASIAでのパフォーマンスのタイミングから、撮影クルー「MIDDLE OF LIFE FILMS」の帯同も開始。その主なメンバーは、代々木公園に移動式リングを持ち込み続けた「S.H.U (STREET HOOPS UNION)」でもあるMURや吉田大致。“バスケも好きだし映像も作る”、そんな当時には本当に貴重な人物達が、歴史の幕開けをDVテープに記録していてくれました。
同時期、S.H.Uのピックアップに参加するため、NIKEコートが完成する約2年前の代々木公園ケヤキ並木に行った際には、その場でTEAM-Sの栄ちゃんとも初対面。
挨拶時には名刺を渡され、“ストリートのチームなのに名刺を持ってるなんて”と、一歩先を行くチームの存在に驚いたのでした。
FAR EAST BALLERSの掲げた目的は「日本にストリートボールを広めること」、そして「ストリートボールで食べること」。なので最初からプロ・ストリートボール・クルーというスタンスで活動。そしてその“プロ”であるためには、選手3人とDJだけでは成立しません。
そこでAJが3人のスタッフを集めていました。現場や練習などチームのマネージャーとしてYONE。フロントスタッフとしてKENSAKUとNATOO(留学までの期間限定)です。
選手&全体のリーダーはAJ、スタッフのトップはKENSAKU、これでようやくチームとしての体裁が整いました。
続いて、何よりも大事な練習場所も無事確保。
卒業して学生寮を出たCOHEYが引っ越した東高円寺にある、杉並区立高南中学校の体育館にて毎週月曜と木曜です。真面目で愛嬌のあるYONEが体育館の利用者会議内で気に入られたこともあり、この貴重な体育館練習は数年間継続されていきます。登録団体名は「杉並FAR EAST BALLS」。
そして2003年4月からは、この週2回の練習に加え、土曜の15:00から吉祥寺にて全員でのミーティングも行いました。場所はいつもシェーキーズ吉祥寺店。自分も渋谷でバイトを終えて、線路沿いのグラフィティーを眺めながら井の頭線で向かっていましたね。
環境は徐々に固まってきましたが、チームの活動は全てが手探りで先行き不透明な状況。なのでシェーキーズではこれからの計画をみんなで練るわけですが、AJのビジョンは最初のミーティングの時点で定まっていました。
“夏に沖縄に行って撮影して、年内にDVDを出す。再来年の夏までにNYに挑戦する”
正直無謀にも思えましたが、やるしかない、実現に向けて動かねば、そう高揚したのを覚えています。それは他のメンバーも同じ。そうしてつまるところ、最優先で今何をしなければならないか。
答えは明確、選手集めです。
先月まで学生だった社会人一年生達は、ここから様々な「運命の出会い」を経験することになります。
そして日本のストリートボール史の一編が、少しずつ、しかし着実に紡がれていくのでした。
FAR EAST BALLERS誕生編 [完]つづく>
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