【連載】日本のストリートボール史 vol.1
- FAR EAST BALLERS誕生編 -
※個人の記憶を奔放に綴った内容ですので、きっと事実と異なる点もありますがご容赦下さい。
“ストリートバスケじゃないの?”
“いやアメリカではストリートボールって呼ぶんだよ”
2002年10月のある土曜、東京都日野市、駅から車で10分、庭の向こうに川が流れる大きな一軒家の2階、階段を上がってすぐ左の母親の書斎となっているらしい一室にて、その呼び名を始めて知りました。
“このストリートボールを日本でもやろうと思ってる”
その時、佐々木クリスの母親が仕事で使っているパソコンのモニターに映っていた映像は、世界中の多くの人生を変えた「AND1 Mixtape」だったのでした。
「ストリートバスケ」との出会いは1993年。
中学の同級生が相模原麻溝公園にハーフコートを発見して、部活動がない週末には自転車で30分かけてみんなで出動。途中の酒屋でC.C. Lemonの1.5Lボトルを買うのがお決まりでした。
そして学生証を手にしたことにより、レンタルビデオ店の会員登録が可能に。ホームアローンや死霊のはらわたにも飽きた頃、運命の映画『ハード・プレイ (原題:White Men Can't Jump)』がレンタル開始となりました。
ジュラシック・パークの際に修得した技術でダビングも完了。何度もあの冒頭のピックアップゲームを復習し、麻溝公園をベニスビーチに見立ててストリートバスケに励んだのでした。
「AND1」との出会いは1996年8月。
その4ヶ月前、桜美林高校のトレセンにて初対面した佐々木クリスは、夏休みに入ると同時に渡米し、現地のバスケットボールキャンプへ参加。8月末には若干片言になった日本語で部活に合流し、アメリカでの経験談や手に入れたギアを披露してくれました。
ちなみに、“母さんがみんなにって”と男子高校生の部室が騒然となったお土産のあの雑誌は、四半世紀も前のことなので時効ですね。
1年生の仕事である、缶に入ったモルテン製ワックスと朽ちかけのスポンジで行うボール磨きも早々に済ませた夏練開始前。Air Zoom Flight 96のシューレースを結ぶクリスに背後から聞きました。
“それ何?あとなんでひっくり返して着てんの?”
“これがいいんだよ”
裏返しになって外側に出た首元のタグ、そこにプリントされていたロゴがAND1でした。
“このストリートボールを日本でもやろうと思ってる。ビジネスとして”
まだ社会を何も知らない学生だったせいもあり、確かにその言葉には説得力を感じました。
素人が8mmビデオで撮影した素材を、音楽に乗せて適当に繋ぎ合わせた荒い映像。NBAが出していたビデオ作品群とは比べものにならないクオリティーです。
しかし、いわゆる「トリックムーブ」を織り交ぜたそのバスケットボールには、目から鱗の発想による創造性やエンターテイメントとしての可能性に溢れていることが、初見でも強烈に伝わりました。
“これはエンタメだし、HIP HOPの一部だと思う。だからDJが必要なんだ”
“そりゃもちろんやるけど、選手はお前以外に誰がいるの?”
”今のところ2人いる”
そしてその後に紹介されるのが、エージとコーヘイ。全員同い年で大学4年。
ここから新卒でストリートボールに就職するという、ひどく無謀な挑戦が始まるのでした。
つづく>