【連載】日本のストリートボール史 vol.17

- FAR EAST BALLERS奮闘編 -
※個人の記憶を奔放に綴った内容ですので、事実と異なる点もきっとありますがご容赦下さい。

コンポジ&秋葉さんとのファーストコンタクトは「せせらぎまつり」。そして再会の場所である美竹公園JORDAN COURTが一般に開放されるまでにはまだ時間がかかります。

その間にもFEBは、昼に夜に毎週末のように稼働していました。例えば、新宿アルタ前で行なわれたAQUARIUSのプロモーションイベント。“商品でボールを回す”というパフォーマンスを初めて行ったイベントですね。

他には、当時人気絶頂期であったLUDACRISの2日間に渡る日本公演のフロントアクトとして、CHRIS & DJ MASTERKEYが出演し、FEBもライブの後半から登場。

初日の深夜には別途クラブ出演もあったので、新木場STUDIO COAST→六本木CORE→新木場STUDIO COASTというタフでスリリングな2日間を経験しました。

さらにこの時期は、1stフルアルバムのリリースに向けてCHRISのレコーディングも進んでおり、その場所はDJ YUTAKAさんのスタジオ。FEBクルーの夜遊びをテーマにした曲を録る際には、メンバーも“ガヤ録り”をするためにスタジオに集合しましたね。

そしてコートを囲む金網の工事も終わり、いよいよJORDAN COURTが完成。7月4日にオープニングイベントが開催されました。

一般来場者へのコートのお披露目が行われ、FEBと在日台湾人チーム「TWISTER」のエキシビションゲーム、そして子供達のクリニックといった流れの1日です。

さらにこのイベント後には、自分も客演するCHRISのレコーディングがあり、明け方までリリックを書き、CHRISを車で迎えに行き、車内で曲の打ち合わせをしながら渋谷に向かったのでした。

JORDAN COURTは若干狭いのでゲーム形式は4on4。メインMCはCHRISで、自分達の高校の同級生でラッパーだった“狛江SOLDIER”がサブMC。この時点ではMAMUSHIはまだMCではなく、コートの角から試合の撮影をしてくれていましたね。

そしてこのオープニングイベントの運営、並びに今後のJORDAN COURTの管理を渋谷区から受託したのがKOMPOSITIONだったのでした。

秋葉さん陣頭指揮のもと、コンポジスタッフによる安定した運営によりイベントは滞りなく終了。渋谷の街中にストリートコートが生まれた記念すべき日です。若干の名残惜しさを感じつつも、自分とCHRISはすぐにスタジオへ。

この日はDJ YUKIJIRUSHIさんプロデュースによる、当時日本でも流行り始めていたReggaeton調の曲のレコーディングで、DJ KAORIさんもサビで参加。そのサビはスタジオでCHRISがメロディーを考えて、自分が作詞。必死にサビを作る我々を尻目に、KAORIさんはのんびりとチルしていましたね。

紆余曲折ありながらも、KAORIさんのボーカルも無事撮り終え、深夜に完成した曲の名は「願い事 feat. DJ KAORI & MIKO」。本当に長い一日でした。

自分達がスタジオで奮闘していた同じ夜。オープニングイベントを終えた残りのFEBとKOMPOSITIONは打ち上げへ。場所は道玄坂にあった大きな座敷のある居酒屋「日本橋亭」です。

その場で秋葉さん、そしてコンポジの代表理事である寺井さんと大いに盛り上がったメンバー達。そもそも飲み会をする習慣もなく、他団体と一緒に打ち上げをすることも滅多になかったFEBは、圧倒的“飲み会巧者”である御二人に完全に魅了されたようで、翌日の東高円寺練習で「コンポジ最高」「秋葉さんと寺井さんマジすごい」と昨晩の話で持ち切り。

当時流行っていた“あるある探検隊”をやって盛り上がっている下らない動画を見せられて、自分とCHRISは蚊帳の外感を味わいつつも、この2団体の距離が一気に縮み、信頼関係が築けたことを喜ばしく思ったのでした。

FEBがずっと頭を悩ませていた根本的問題。それは単純に「試合がない」ことでした。日々色々あるパフォーマンスはあくまでストリートボール普及目的であり、我々の活動の本筋ではありません。

その悩みがJORDAN COURTでの継続的なイベント開催によって大きく改善されることとなります。そして何より、自分達のホームコートと呼べる場所ができて本当に嬉しかったですね。

早いもので2004年も真夏に突入。昨年同様盛りだくさんな季節の到来です。

改めて振り返ってみて、この年の夏に活躍していた人物を挙げるならば、その1人は確実にMAMUSHIとなるでしょう。

つづく

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