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①バカビリーさんを育ててくれた街は?

バカビリーさんとは『騎馬武者ロックフェス2024』ステージでご一緒させていただきました。今回はその“続編”的な意味合いも込めてインタビューをさせてもらいますね。騎馬武者には、石川県からご家族でいらしてましたね。
家族3人で東北に行ったのも2019年に開催された『ISHINOMAKI BUCHI ROCK』(宮城県石巻市)以来で、今回やっと南相馬に行けて。家族で色んなところをじっくり回れて良かったなぁ。浜通り・中通り・会津でそれぞれ違いはあるだろうけど、うちの奥さんが“福島の人はやさしいね”って言ってて。騎馬武者は“おかえり ただいま”っていうテーマがあって、原発事故があって人の流れが変わって、帰って来る・帰って来られないっていうことが特に強かったエリアだろうから、なおさらね。
俺はね…多分、原発事故がなかったら、石川には帰らなかったと思うのよ。故郷の土地が性に合わないイメージがあったから(笑)、出来れば東京にいたかった。でも、放射能のリスクも考えて帰ってくる選択をしたんだけど(※この点は後述)。
福島県いわき市で開催される『ASYLUM in Fukushima』には毎年、バカビリーさんはいらしてますよね。
うん、そうね。自分(自身)が変わったのって、やっぱり3.11だから。東日本大震災があって、福島・東北の復興が日本の復興なんて言われてたけど、それを毎年、自分の目で見るっていうことが自分の中でのテーマだと思ってるしね。

バカビリー/防災士】 石川県生まれ
 高校卒業と共に上京
 建築関係の仕事をしながらサイコビリーのDJとして活動する
 東日本大震災があって石川に戻り
建築の仕事と農業をしながら防災士の資格を取得
 2024年始に発災した能登半島地震の復興に尽力し続ける
(写真は高校生のアメリカ・ファームステイ時)

 趣味はホラー映画を観ること
(奥様曰く“ボランティアじゃない?”)
好きな食べ物はスイカと回鍋肉と焼肉

では、皆さんに必ず聞いている質問1つ目で、“バカビリーさんを育ててくれた街は?”と聞かれたら?
そうねぇ…思いっきり、高円寺じゃない(笑)?(生まれてから)高校を卒業するまでずっと石川県の金沢でしたけど、それから20年間はずっと東京にいて。東京で内装屋さんに就職して、イヤイヤ1年はやってお金を貯めたの。あんなにお金貯めたのも最初で最後(笑)、それからはバイト生活。
俺は15歳の時から高円寺に住むってことを決めてたのね、昔「宝島」っていう雑誌があってその中のパンクコーナーだったか、アングラな内容の中に“石を投げればパンクスに当たるこの街に住め!”みたいに書いてあって、そんな街があるんだ?って思って。単純でしょ(一同笑)。で、そこ(=高円寺)を目指す、みたいな。
パンクを聴いていたり興味はあった?
あったね。中3の時に深夜番組でメイクをしてなかった時代のKISSを見て、ボーカルのポール・スタンレーが客席を歩いてくのよ。スタンディングの客に足を押さえてもらって、それこそBRAHMANみたいな。その映像を見て“何だこれ、カッコ良いなぁ!”って思って。高1になってからはヒップホップやレゲエ、タイニー・パンクスとかランキン・タクシーとかも聴いて。そしたら高1の冬に“パンクっていうジャンルがある”って(知って)、金沢のレコ屋でアルファベット順に並んでるレコードを片っ端から見て“これがパンクだろう”って思って手にしたのが、サイコビリーだったのよ。
ジャンルで分かれてるわけじゃないし分からなかったと(笑)。
そう、勘違い(笑)。勘違いからサイコビリーに入っちゃったの。ジャケット見てこれだなって思ったのが、トーメントっていうイギリスのサイコビリーのバンドで。ポロシャツで髪型もバカァーンとしてる人たちなんだけど、ウッドベースは“何?この音?”っていう感じだったし、どハマりしちゃったんだよね。
勘違いから入ったけど、スタイルは15歳の時から変わらずでコアの部分はサイコビリーっていう感じ、かな。
正直、詳しくないので教えて欲しいのですがサイコビリーとは?日本のアーティストというのは?
柳家睦&THE RATBONESの前身・BATTLE OF NINJAMANZも例えば、カテゴリーとしてはサイコビリーかな。

サイコビリーは意外とミクスチャー的な要素があってポップな感じのネオロカビリーなサウンドもあれば、ダークサイドでスピーディーなハードコアサウンドを出すバンドもいたり、カッティングを入れたスカ調のバンドもある。管楽器を入れたり様々である意味、多彩。だけど客層はヤンキーなノリ…かな。ハタチぐらいの頃は“ライブハウスに女・子供は来るんじゃねぇ!”みたいな男の世界で流血とかケガがあったからね。今、モッシュやダイブがどうのって言われてるけど、俺らからしたら可愛いもんよ(笑)。その頃の俺は、ライブハウスで死ぬんだなぁと思って行ってるし、それが人生だと思ってたから。
バカビリーさんはサイコビリーのアーティストではないですよね…?
俺はサイコビリーのDJをずーっとやって来てたの。DJになりたくて東京に行ったからね、金沢にはサイコビリーの人間もいないし、東京に出て揉まれてみようって。
それこそ柳家睦さんとかHELLBENTとか(も出る)、「ビリーズ・ウィークエンダー」っていうイベントが下北沢251であって。ライブはライブハウス、DJのスピンはクラブって完全に2つに分かれてた時代、最終金曜日の深夜にDJとライブ…その融合が、当時はまだ新しくて。メジャーな人なんかいないけど、怖いもの見たさ半分で客は来るのよ。実はTOSHI-LOW(BRAHMAN/OAU)もこのイベントに遊びに来てたみたいだし(笑)、TOKYO $KUNX(トーキョー・スカンクス)っていうバンドが大好きだったみたいでね。それは後々、知ることになるんだけども。

当時の貴重なフライヤー!!

DJとしては何と名乗っていたんでしょう?
DJネームが、バカビリー。自分で名付けて(笑)、この名前で始めてるの。それこそスカンクスに「Bakabillie Boogie」っていう曲があって、そこからつけたと思われてるんだけどそうではなくて。サイコビリーっていうジャンルが縦社会だしメチャクチャ怖いって思われてる、それをぶっ壊すために言い出したの。縦社会だけど、俺から下はもっとフレンドリーかつ面白い方が良いじゃん、って自分で名乗ったのがあるんですよ。その名前で東京にいる間はずっとDJもやってたね、建築業もやりながら。
初めて知る歴史です。ところで冒頭に“原発事故がなければ石川には帰っていない”と言ってましたよね。2011年3月11日、バカビリーさんはどうしてましたか?
忘れないなぁ…あの日は現場でお茶の水にいたけど、帰宅困難者にもなって、お茶の水から高円寺は電車で20分ぐらいなんだけど4時間ぐらいかけて歩いて帰ったなぁ。
建築業って色んな地方から来てる人がいて、東北から来てるっていうおじちゃんが(携帯電話の)ワンセグで津波の映像を見て“これで仕事が増える”って言ってたりさ。びっくりしたけど、悪気あって言ってることでもないんだよね。大手ゼネコンの現場で、職人が600人ぐらいいたと思う。
次の日も仕事だったけど、偉そうな所長は黙祷のひとつもしない。俺はそれが頭に来た、だから1年後の3月10日は違う現場で、“仕事とは関係ないんですけど、明日は黙祷をしたいです”って言った。そしたら、“そうですね”って。自分の中では…東京にいる間にさ、外国人の労働者もいっぱいいたけど、日本人として、ね。
俺、2011年1月に息子が生まれたんです。“こんな骨格はタイプじゃない”って言われながら(笑)結婚してさ。震災の時は、嫁さんが実家に里帰りしてた時で。
なるほど…人生のそんなタイミングだったのですか。では改めて、その後いつのタイミングで石川に帰られたんでしょう?
2013年かな…11月の末にね。俺は本当に帰りたくなかった、でも俺、ハタチ過ぎに甲状腺を切ってるのね。食べても食べても太らないから胃下垂だと思ってたんだけど、甲状腺の病気だったの。甲状腺を取ってるからね、少しでもリスクがなくて不安を払拭するために、帰る選択をしてしまった…っていうことだね。

それからの生活というのは?
俺は次男坊だけど実家が農業で、農家と建築の仕事もやって。(震災があって)エネルギーの勉強もしたいなと思って、屋根に登ってソーラーパネルの施工もやったり。石川県には志賀原発があるからね、福井も回って原子力の勉強もしたし(補足:福井県は原子力発電量が全国1位)。
そういった意味で、俺は勉強してたから今回の地震(令和6年能登半島地震)の避難のやり方にしても、全てにおいてダメだなっていうのが分かった。
このお話は騎馬武者ロックフェスでのトークにおいても触れた部分です。改めて伺います。
福島での教訓で、地震があって津波があることを考えると、石川県の地形からすれば能登の人たちが大変になるのは分かってたはずなの。だけどこうなってしまった。ここまでの地震っていうのを想定していないのが大前提としてあった、それこそ2年前に珠洲市で震度6弱の地震があって(2022年6月)、次の年のゴールデンウイークにまた震度6があった。輪島でも2007年に震度6強の大っきい地震があったのよ、その当時は俺も石川にはいなかったしあんまり気にもしてなかったんだけど。
地震が起きてるっていうことを県として力を入れてなかったのではないかな、こんな規模になるっていうことを。地震が起きた・もしくはそれで原子力に何かあったらっていうことも含めてだと思うけど、志賀原発は能登半島のちょうどくびれた所にあるからね、志賀原発より上の能登半島と、南の場所で避難所・設備の違いの落差を目の当たりにしたのよ。原発の誘致って漁業権も絡んでくる、それで集落の漁師に原発から補償金が出たりするんだけど、(原発に反対して)“俺は受け取らない”って。ウチの親戚は首をくくったんだよ。これは騎馬武者の場では言えなかったけどね。俺は原発に反対してるから、(自分の)親父に聞いたらボソッと教えてくれた、そういう話はタブーだったから。でも今回の地震で“それってどうなの?”って。悔しいよね、報道でも志賀町っていうのを出さないようにしてると思ったし。それでもこの土地でやって行きたい、って言うから俺が“どうにかしたい”って家の家財を片付けに行ったよ。
心が折れてたよね、家族もみんな。だけど“アンタがこうやって背中を押してくれて、毎週色んな場所で支援活動をしてて。アンタの行動を見て、私らもどうにか前向こう”ってさ。俺はそれで良かったなぁって思ってる。

『騎馬武者ロックフェス2024』
MUSHAステージにて

今のお話で、たとえ原発が出来て原発に反対でも生まれ育った街に住むことを選んだ。それを言葉にするならば、バカビリーさん的にはなぜだと感じますか?
その土地の…何だろうなぁ、空気とかもあるだろうし。“俺は気持ち、分かるよ”って言ってくれる人もちょっとはいたりする。そういうのが支えになっていたのはあったと思うよね。
自分(自身)も故郷が、言ってしまえば嫌いだったじゃない。今回の震災があって、支援をしようとしてる人たちって地場の人たちじゃなくて、一度この土地を離れた人間が多いんだよ。ここにずっと住んでいる人は、この土地の民度や風土とか性格を実は知らない。離れた人間はそれを客観的に見ることが出来てる。そういう人たちが復興の動きに対して、もがいてるんじゃないかなと思うんだよ。
ここも特有な土地で、東京よりも冷たいような気がする。東京は地方の人の集まりだから冷たいとか言われるけど、俺は全然そう思ってないよ。石川県の場合は、金沢や県外に所帯を持った人は、びっくりするぐらい心の線引きが出来てると思う。故郷に思い出とかもあるはずなのにそれも線引き出来て、だから県内のボランティアって少ないんだと思う。
泣いてる能登の人たちがいるんだよ、その人たちに“息子がどこにいるの”とか、やんわり聞いてみるんだよ。そうすると“金沢にいます”って言う。“仮設の住まいとかを息子にお願いしてるけど全然、音沙汰ない”って言われたりさ。それで“アパートとか、どこかないですかね?”って俺に聞いてくる人もいるんだよ、1人1人に俺がやってたらパンクしちゃうから出来ないけども、冷たいなって思うことがあるよ。本当に仲良い家族はもちろん大丈夫やろうけど、線引きしてる人たちっていうのがいるんだよ。言えない問題っていうのがメチャクチャある、だからもどかしい。

柳家睦さんのチームと
支援物資を届けたときの1枚

【「②バカビリーさんのそばにある1曲」に続く/11月15日更新予定】


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