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③騎馬武者ロックフェス実行委員長の座右の銘

【「②騎馬武者ロックフェス実行委員長の大事な1曲は?」から続く】

3つ目の質問、鎌田さんの座右の銘や大切にしている言葉を教えてください。
う〜ん…(しばらく考えて)“継続は力なり”かな。それか、“有言実行”か。バンドもそうなんだけど、ずっとやり続けないと、途中で止まっちゃうと…全てがね、止まるような気がしてて。
音楽というものにずっと携わってて、絶対に音楽だけは辞めないっていう気持ちで来たからこそ、今があるんだなぁって思ってて。途中で“や〜めた”って辞めてたら、銀行員とか役所で働いたりしてたかもしれないよね。でも俺は、音楽だけはやり続けるって決めてた。(鎌田さんがメンバーだったバンド/インタビュー①で語っている)SCRAPも辞めて南相馬に帰ってきた、とかもあったけど、“音楽だけは辞めない”って。

【鎌田仁/真ん中】
騎馬武者ロックフェス実行委員長(代表)
普段は仕事をしながら
花男くん(左)ライブでは
時にパーカッションでサポートしたり
大きな地震に見舞われた石川県能登へと出向き
支援活動も続けている

好きなものはラーメン
趣味は温泉巡り&御朱印集め
※この写真(2013撮影)の答えはこの先にあります

インタビュー①で見せてくれた雑誌は2006年の出版で、そこにSCRAPが載ってるってことは、その頃は精力的にバンド活動をしてたってことよね?
そうだね。音源を出してツアーを回ったりしてて、それから…色々ともう、忘れちゃったけど。南相馬に戻ったのは、2009年ぐらいなのかなぁ?
ということは、バンドをやめて約2年後に東日本大震災が…?
そうそう。手に職をつけよう、って溶接を覚えてた時に震災が来たの…そうだったなぁ…俺は天から“オマエは手に職をつけちゃダメだ”って言われたんだなって思った(笑)。
バンドを続けろ、っていう思し召しか…ポジティブに言えば。
でもその後、会社の皆も避難するわけよ。それで1週間ぐらいかな、会社から“戻って来い”って電話が来てさ。会社の荷物を工場から工場に移動したいけど人がいないから、って。誰も戻って来なかったもんね。でも俺は戻ったの、(騎馬武者ロックフェス/以下キバムシャ 実行委員も務める)秀さんも“店を開くから俺らも戻る!”って、(2011年)3月下旬かな、南相馬に戻った。
SCRAPのベースも南相馬に帰って来て、当時、俺と一緒に住んでたの。津波に家ごと持っていかれたんだよね。“バンド時代を語り合いながら俺と暮らそうよ”って(笑)、半年ぐらい一緒にいて。
それで4月からは仕事も始めて生活してたんだけど、さすがに半年ぐらいで…嫌気がさした。俺らは普通の作業着着てるのに、タイベック(=防護服)着てマスク付けてる人がやって来たりしてさ。工場の荷物の取り出しで、津波に呑まれた国道6号線を走るのを毎日繰り返してた。朝起きて仕事して、夜に寝て。人はいないでしょう、余震は続くでしょう。ここに住んでたらまずいなっていう雰囲気になってきたんだよね。誰も帰って来ない、誰もいない。“そこにいない方が良いよ、避難した方が良いよ”って周りも言う。だんだん、精神的にもおかしくなってきちゃってね。

それで、2011年10月に秋田に避難したの。南相馬にも行ったり来たりしながら、2年ぐらいいたのかなぁ。せっかく秋田に避難したんだし、秋田の音楽シーンやライブハウスに顔を出すようになって。
秋田でもドラムを叩くようになって?
やりました。セッションバーみたいなところがあって、俺も器材を持って行ったの。でも扉を開けたら誰もいないんだよね(笑)。“セッションしたいんですけど”って言ったら“どうぞ叩いてください”って、誰もいないところで。ドラマーのオーディションかよ!って(笑)。
“すごいですね〜!”なんて言われて、それから“ギター弾きます”って人が出て来たりしてセッションになっていったけど。面白いよね。
秋田に行っても音楽を通して出会いがあって、繋がりも持って。
そう!秋田でも友達を作りたかったし、結果として音楽を通して友達を作れたし繋がりも出来た。だから、音楽をやってて良かったなぁって思う。
ここまで頑なに、“音楽だけは辞めない”って思わせたのは何だったんだろう?
何だろうね……楽しいんだろうね。何をしてても音楽がなければ“つまんない”ってなっちゃうと思う。俺の人生には必ず音楽がないと生きていけないかなって思うし、それはやっぱり“楽しいから”なんですよね。
なるほど。そんな秋田での生活から、でもやっぱり南相馬に戻った。それは何故だったのかな?
きっかけはやっぱり…キバムシャなんだろうなぁ。秋田でね、梶さんに再会したんだよね。たまたまブルーハーツのDVDを見てて“梶さん、何やってるかなぁ?”と思って電話したの。それで震災の時のこととかの話をして。梶さんはTHUNDERBEATっていうユニットをやってて、本当にたまたまなんだけど“来月、ツアーで秋田に行くんだよ”って話で。
それで秋田で再会して色んな話をして、“南相馬のライブハウスで何かイベント、やりませんか?”って話をしたの。そしたら梶さんも“おー!やりましょう!”って。南相馬でイベントなんか何もやってない状態だったし、地元のバンドなんかも出てBACK BEATでイベントをやったの(2012.11.18)。それが始まり。

2012年11月18日に開催
福島カモーンズ」もチェックです

梶原さんとの出会いで、これまでの人生にたくさん影響を受けてるのだね。
あとは花男もね。震災後、ツアーでBACK BEATに来てくれて“これは絶対に会わなきゃ”って、秋田から会いに行ったの。花男とも郡山でよく対バンしてたから(補足:花男くんにもこの企画でインタビューをしています、コチラからぜひ)。
南相馬の家も借りてるままだったから、花男をそこに泊めてさ。そこから…花男とも付き合いがまた、深くなっていったかな。そうやって南相馬に行ってるうちに、“そろそろ南相馬に戻って来ないと、まずいんじゃないのか”って。梶さんに言われたんだよね。
それで、南相馬に戻って来てからというのは?
また新たに、それなりに出来る仕事を紹介してもらって。当時、一時帰宅っていう仕事があってね、いわゆる立入禁止区域に帰って来る住民の方のためにゲートを開けたりとか、浪江町とか双葉町の人をマイクロバスで家まで乗せて行くとか、一時帰宅のサポートをする仕事があって、それに従事してたの。“この野郎!”なんて怒鳴られてる人もいたりしてさ、でも“俺も地元なのに…”って言ってさ、“ごめんな、悪かったな”って謝られたりしてさ。結構あったね、そういうのが。
南相馬に完全に戻ったのが2013年、その翌年に騎馬武者ロックフェスをやってさ。
では改めて、2014年に騎馬武者ロックフェスが立ち上がるというのは?
それが岩手県大槌町。花男と南相馬で再会した後に、花男から“カホン、出来ない?”って連絡が来て。ドラムはやっててもカホンはやったことないから“買って練習します”って言ってさ。
それが何でかって、“トロンボーンを吹く(小池)隼人と3人で、東北を回らない?”っていう話で。南相馬と仙台、岩手と。仙台が(2013年)3月11日で、次に大槌の「Ape(アペ)」って所に行ったの。

大槌でライブを行った時のフライヤー

それで俺は初めて大槌に行って、ライブもやって。その時、「おおつちありがとうロックフェスティバル」の人たちに会って、夜は仮設住宅で飲んだのよ。
そこで色んな話をしてる中で、“南相馬でも何かやった方が良いよ。今やらなかったら多分ね、後悔するよ”みたいなことを言われたの。“そんなの出来ないっしょ!”って思ってたけど、一晩考えて。“南相馬に帰ったら、何かをやってみる方向で行こうかな”って花男に言ったら、“よし!!!”って。それで花男が“俺は今日から物販の横に募金箱を置くから”って、南相馬で無くなってしまった花火大会を復活させるために募金をするからって言ってくれて。それが本当のスタート、はじまりだった。

花男くんと共に
小池隼人さん(右)と鎌田さん
岩手県大槌町でライブをした時の1コマです

南相馬に帰って来てすぐに、彦さん(キバムシャ前実行委員長)や、秀さんに“こういうフェス、やらない?”っていう話をして。まずは実行委員会を作りましょうっていうところから、手探りで始まっていったの。それから、準備期間には1年かかって。
そういう流れだったのか…!
だから、大槌っていうのはキバムシャのきっかけっていうところがあってさ。本当に“ありがとう”だよなぁ、って。
キバムシャが立ち上がる前から実は、復興食堂(←運営していた当時のXアカウントです)で(大槌の人も)手伝いに来てくれてたの。南相馬に「よつば保育園」っていう所があるんだけど、そこでの炊き出しに復興食堂のメンバーが来てくれて、出来る人はライブもしたりしてね。
わたしはキバムシャのスタート時は「幡ヶ谷再生大学」のお手伝いで行ったりしていて。岩手の人が来てるな?とは思ってはいたものの、こんな背景があったことは全く知らなくて。
なるほど、そうか〜!
鎌田さんともその時は全然会ってないですし、そもそも福島の方と接点を持つことも当時はなかったです。
そっか〜。いずれ結局、繋がる人とは繋がる運命とかってあるのかなぁ、ってね。

岩手県大槌町にあった「Ape」

【「④「鎌田さんのこれから」に続く/8月29日更新予定】


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