
③Mobstyles・田原104洋さんが大切にしている言葉
トシさんが大切にしている言葉を1つ教えてください。
言葉か…たいして、ないんだよなぁ。「挑戦」かな。
インタビュー①&②でも“何でもやる!”というエピソードが多かったですよね。そのスタンスは小さい頃からですか?
いやいや、どっちかと言うと俺は元々プライドが異様に高くて、負けず嫌い。だから負けることを避けて生きてきて、人生0勝0敗なの。負けるぐらいなら戦わない、プライドが高いとそうなってくるのよ、恥をかくのが嫌だから。それを35歳すぎぐらいから、やめたの。カッコ悪くてもいいやって思い始めて、そこから色んなことを始めて。キックボクシングの試合に出ることもそうだし、今、弾き語りをやってるのも一緒。“やってよ”って言われたことは全部やって、後で考える。でも返事した後、ほとんどのことで“なんでやるって言っちゃったんだろう”って思ってる(笑)。だけどとにかく、もらったチャンスだと思って、断らない。やらない方が勿体ないとか後悔する、だから出来るだけやっていこう、と。
偽善でもなんでもいい
まずは行動してから考える
Mobstylesを立ち上げたのは32歳ごろでその立ち上げがきっかけとかではなくて、35歳っていう年齢がそうさせたと思う。あとはその頃、ちょうど時間が自由になったのもあって。何でもチャレンジ出来る時間があるのは恵まれてると思うし、せっかく恵まれてるならチャレンジしていこう、って。
そこからより、そう生きていこうって思ったのは東日本大震災の後だよね。皆がそこで1回考え方が変わったと思うし、俺は商売をやってるから損得で動くこともあるけど、それだけじゃないなって。偽善でも何でも良いけど1回やるとか、1回行ってみるとか。全ては行動してから、考える、みたいな。
震災はトシさんにとっても大きかったですか。
メチャメチャ大きかった。その時に俺、西(=広島)にいたら多分こんなに感じでないと思う。あとちょうど子供が生まれたばっかりの時だったの。奥さんが北茨城の実家で出産したばっかりで津波も近くまで来て、北茨城の大津漁港ってトンネル潜ればもう福島みたいなところだから、被災して避難所に行って。大津漁港も全部、波に飲まれてたし嫁さんの実家の800メートル手前まで津波が来て、家もちょっと傾いたりして。3月14日の日になるんだけど、TOSHI-LOWが車で一緒に迎えに行ってくれたの。
そうだったんですか!?
そう。TOSHI-LOWの水戸の仲間の1人から“北茨城への道、通じてるよ”って連絡があって。迎えに行きたいけど車も借りられなくて、そしたら“トシちゃん、迎えに行こうぜ”って。しかも福島第一原発の爆発もあって、とりあえず食えるもの・飲めるものは買えるだけ買って行こう、って。でもクッキーみたいなお菓子しかなかったり、高級スーパーに行かないと買えなかったりしてさ。それですごい合計金額になったけど、俺、財布を忘れてて。TOSHI-LOWが“オマエの、嫁の、迎えだからな!”って言いながらカードを切ったりとか、そもそもTOSHI-LOWと2人だけで車に乗るシチュエーション初めてで(笑)。もう最初っから、行く間もずっと大喋りしてて。
途中のコンビニでトイレを借りようと思ったら“使えません”って、確か水戸を超えたあたりだったと思うんだけど、当たり前だよね。ずーっとお喋りしてたんだけど、そこで素に戻って。駐車場は福島ナンバーの車ばっかりで仮眠をとってる人もいる。そこからは、2人とも無言で向かったの、電気も何も通ってない暗闇の中。だんだん空が白けてきたら、津波で真っ茶色になった場所があったり、それこそ看板の上に車が乗っかってたりするのを見ながら迎えに行って。
買ってきたものを全部渡して、お義父さんお義母さんも一緒に行きましょうって言ったんだけど“瓦が落ちた家に俺が行って手伝ってやんないと”って。お義母さんもお年寄りの介護があるから、って。TOSHI-LOWが“偉いわ…”って言ってさ、それでTOSHI-LOWが(東京に戻って)すぐ、物資を集めて北茨城市役所に運ぶのよ。運んで帰ってきたらTOSHI-LOWが“俺はちょっと東北を見て来る”って。BRAHMANのメンバーがそれで次の日には全員、行ったのかな。あの場所に行って見て、においを嗅いで。それがたかだか、数日間の出来事。

長野での台風の災害後に活動をする
トシさん(2019年)
トシさんの子供さんを迎えに行ったことから始まっていたとは…知らなかったです。
そこで俺もスイッチは入って、だから幡ヶ谷再生大学の活動はしてるの。“トシちゃんは何でもトシロウ、トシロウだもんな”とか言われるけど、それはそうなの。だって震災があってからずっと一緒にいて、世話になってるんだもん。TOSHI-LOWが見事にきっかけになってるし、あの時、原発が爆発しても行かせてくれたTOSHI-LOWの家族もすごいなと思ってる。
仰る通りです。よりにもよって、原発に近づく方向を目指すなんて。
AIR JAM’11で、どうMCしようか悩んでたらロンブー(ロンドンブーツ1号2号)の(田村)亮が、“オマエが言いたいことは全部言ったらええねん”って、BRAHMANのライブ前にMCでこの話をして。ステージ袖を振り向いたら、亮が目の幅の涙で泣いてたね(笑)。
そもそもBRAHMANとの最初の出会いというのは?
98年かな、あなざわけんじっていうパンクロックDJの友達が“すごいカッコいいバンドがいる”ってライブに連れて行ってもらって。そしたら俺も大ファンになっちゃって、見に行けるライブは見に行ったりして追いかけてたのよ。Mobstylesを立ち上げて時間が自由になってからは地方にも見に行ったりして、ずっと追いかけ続けてた。
98年のAIR JAMのMCで呼び込みをしてから、ちょっと話すようになって会ったら挨拶ぐらいはして、99年のフジロックでまた紹介をする時。事前に打ち合わせがあって、“KOHKI(Gt)が1人で出て行ってチューニングをする。チューニングが出来たら(トシさんの)目を見るから、目が合ったら呼び込んでくれ”って言われてたのに、BRAHMANの紹介をするってことで俺がテンパっちゃってさ、KOHKIがまだチューニング中なのに“BRAHMAN!”って呼び込んじゃったの(一同笑)。KOHKIはあれ?あれ?って感じだったし、メチャクチャ舞台監督に怒られる、っていう。“トシちゃん、あれはないよ!”って言われて、ゴメン!!って謝って。でもそこからスゲー仲良くなった(笑)。あれから今も、バンドがずーっと続いてるっていうのは本当にすごいよね。
普通にファン過ぎるエピソード!
そうなの。しかも当時は超ストイックで(MCで)喋らないバンドじゃん、(Mobstylesの)イベントに出て欲しいなんて言えなかったし、(オファーしたところで)“ウチのバンドには合わない”って言われるだろうと思って(笑)。それぐらい好きで、今でこそ何でも言える関係だし、周年のイベントにはBRAHMANに出てもらえる。その嬉しさはあるよね。
それで言うといっちゃん(LOW IQ 01)はウチのイベントの1回目・5周年の時から全部、出てくれてる。7周年、10周年、15周年、20周年は(コロナ禍で)飛んで、今回の25周年。いっちゃんは、いつも一緒にいると言うか、一緒に出てくれてるっていう距離感。構えるわけでもなく、何なら毎日ここに寄って“ウェーイ!”って言って話もせずに帰ったり(笑)、急に来て話を止めないっていう時もあるし(一同笑)、「ザ・お友達」みたいな感じ。
あと、10-FEETは一緒に育ってきた嬉しさがある。俺を育ててくれたのはこの3組かな、って思うんだよね。何でも言うことを聞いてくれたのが10-FEET、言いにくいことも言ってくれたのはBRAHMAN。キツいことも言うけど慰めてくれるのがいっちゃん、みたいな。俺は皆に育てられている感があるよね、現在進行形で。

LOW IQ 01さんの対談を組んだ時も
(お相手は“しのっぴ”こと渡邊忍さん)
トシさんのお店で撮影&対談を
させていただきました!
Mobstylesスタッフの皆さんも一緒にパチ☆
トシさんは毎年、岩手県の沿岸部・釜石市に来てくれてますよね。今回のMobstyles25周年ツアーにしても釜石が入っている。その大きな理由を改めて、このインタビューで残させてください。
六本木ヒルズで魔裟斗とKID(山本“KID”徳郁)がイベントをやった(『東日本大震災 復興支援 チャリティ・ファイトイベント~立ち上がろうニッポン!~』/2011年春)時、釜石にいる平野(仁/格闘家/グラップリングアカデミー・グラアカ)が東京に来て。格闘技って団体どうし色々とあったりして集まらなかったりけど、その時だけは各団体・色んな団体が集まってね。
KIDと平野がエキシビジョンをやるはずだったんだけど、KIDが怪我をしてルミナがやることになった(※佐藤ルミナさんとのことはインタビュー①参照)。それで俺も見に行ったら、東北代表として平野がマイクを持って喋った。
“今回は、東北のためにありがとうございます…ですけど、起こったことは起こったことだし、どこでも起こり得ることだから。僕たちが思うことは、今、隣にいる人・お父さんやお母さん、家族や子供、恋人、自分が愛してる人たちに愛してると伝えること。明日いなくなる可能性もあるんです、今日・今いなくなる可能性もあるんです、だから自分が一番愛している人を大切にしてください”…そういうニュアンスのことを話して。俺、感動してそこで泣いちゃって、すぐTOSHI-LOWに電話して。

現在も釜石在住なので
Mobstylesイベント時はもちろんいます🎶
(ミッフィーカフェかまいしでのイベント時/
2013年3月)
何をしたら喜んでもらえるのかと考えて
BRAHMANって東北を回ったじゃない、それで平野と繋がって“オマエの一番の味方になるのがトシちゃんだから連絡しろ”ってTOSHI-LOWが言ったと。それで平野からメールが来て、やり取りをするようになって。釜石に行って案内してもらって、宮古にも行ったらオオタキン(太田昭彦/クラブカウンターアクション宮古)に美味しい肉をご馳走になって、俺は何しに行ったんだろうって思いながら帰ったのが最初。
それからは、何をやったら喜ばれるだろう…って考えて、オリンピックに出たレスリング選手とかを連れて行ったの。最終的には釜石でライブイベントをやることになったんだけど(そして今に至る)、2012~13年頃って弾き語りで行く人も多かったじゃない、仮設のおじいちゃんおばあちゃんもすごく喜ぶし、それを見て思ったのは“音楽が出来れば良かったな”っていうことと、“俺に知名度があれば”ってこと。俺に知名度があって弾き語りが出来たら、どこに行っても人を喜ばせられるのにな…ってすごく思ってて。そのタイミングで弾き語りを始めてたらカッコ良いけど、それから10何年経ってから始めたっていうオチにはなるけど(笑)。
弾き語りの話はインタビュー④(翌週公開予定)に続きますが、来月の釜石でのライブの話もちゃんと繋がってて地続きでしたね。
そう、繋がってるの。だからやっぱり釜石で歌いたいのよ。俺が弾き語りをしたところで誰も喜んではくれないんだけど(笑)、その時に思っていたことも今回は持って行けるし、パズルの最後のピースをはめます、みたいな感じ。釜石に行く理由と釜石で俺が歌う理由は全部繋がってるの、ただの出たかりじゃないんです(一同笑)。

広島県出身
アパレルブランド「MOBSTYLES.」主宰
ランニングステーション&トレーニングスタジオ「&MOSH」や
台湾屋台朝食喫茶「押競満寿」も手がける
京都大作戦、AIR JAMやFUJI ROCK FESTIVALなど
大型フェスでのステージMCも担当する
好きな食べ物:ハンバーグ
趣味:弾き語り
【「④トシさんの、これから」に続く/2月第4週公開予定】