幸せについて②

「幸せについて①」を公開のために推敲しながら、自分の人生の中で幸せだった場面があったかどうかを振り返り始めました。

一番最初にふと思い出したのは、小学5年生の頃の出来事でした。
学校の授業で、視覚障害の体験を行う授業に参加しまして、ペアになって誘導役と障害を持っている方の役割に分かれて、スタートからゴールへ向かうというデモンストレーションを行いました。
目隠しをした生徒に対して、手をつないで誘導しながら2Fの廊下→階段→1Fの廊下を渡りゴールへ進むという内容でした。
周りはどうしていたかをあまり思い出せません。
自分も視覚障害者の方の役をしたのかも覚えていません。
その時に、ある女の子を誘導することになりました。
その女の子は小学1年生から好きだった女の子で、かなり緊張しながら相手を誘導した思い出があります。
この機会にふと思い出しましたが、その記憶は「幸せ」以外で色づけされていないような記憶と思います。

これを、自分の人生の中で直接的に幸せそのままを指し示すような出来事として思い出しました。


「日常的に幸せではない」、と前回の記事で書きました。
後日、仕事でうまく内容が進み、通して集中できたような日がありました。
午前中に調子が良かったので、お昼ご飯を抜き、仕事を終えてから食事をしました。
1日通して充実したあとの食事はおいしかったです。確かに幸せで、こういうときはあまり余計なことを考えずに食事をしたと振り返ります。
このように、自分の状態が満足かそうでないかも、食事の機会をどう判断するかに関わってくるようです。
「幸せについて①」で書いた相手の幸せな様子も、その人が充実した状態でおいしい食事をとったからこそ、幸せであったのだろうし、それを見て自分も幸せをダイレクトに見てとったのでしょう。


「幸せではない」と自分を振り返ったのですが、
「幸せ」はどうやら自分の今現在の状態に関わるようで、今の自分の状態がそれぞれの機会の体験を「幸せ」かどうか判定するようです。
また、現在の私の状態で、もし「幸せである」ならば、過去の幸せなこともより浮かび上がりやすく、もし「幸せでない」ならば過去の幸せでないことも浮かび上がります。
その時何を思い出すかによって、自分の振り返りをいくらかにも変えてしまうようで、これはまるでオセロのようです。


このように、個人的な「幸せ」の気づきを書いていきました。

この後③において、「カップルや家族の姿を見かけて、確かに幸せそうな姿だけれども、なぜこの形に発展していくのか。そのプロセスの想像がつかない。」という理由から、結婚について「なぜ?」を掘り下げていく予定でした。社会システムから「幸せ」の形について見ていこうとするものです。
また、④において、数々の心理学の記述を参考に、「幸せと理想」の関係・「幸せと脅威」の関係・……などなど、自分が見いだしたことを参考にいくつかテーマを決め、「幸せ」に不可欠な要素をそれぞれ書いていく予定でした。
しかし、自らが幸せでなかったら「幸せ」について論じても、説得力は落ちてしまいます。書いた内容を簡単には受け取ってもらえません。
④で予定していたそれぞれは「幸せについて①」の内容で問うたような内容と密接に関わっています。
でも、記事にすることは、ここでひとまず終わりにしたいと思います。

引き続き、自分の興味や関心して持っていつつ、それを自分の環境や世界でどうやって発揮するかを個人的に調べていこうと思います。
記事として成立する、と思ったら、またnoteに残していきますね。


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