幸せについて①

つぶやきにするには長すぎるので、記事にしてみました📝


今日、ふと幸せについて「幸せとは何だろうか?」を具体的に考えました。
今まで、「幸せとは何か?」ということを具体的に考える機会はなかったです。

まず、この内容から考えます。
「自分は幸せだろうか?」。

または、
「自分が幸せだったときは?自分が幸せを感じたことはなんだろうか?」

確かに空虚感は感じたことがなかったです。
やることに欠いているというわけではなく、意欲もそれについてきている。
しかし、「幸せ」となると話は別で、日常的に「幸せ」と感じたことでも、それは別の言葉で置き換えられるものとも思えます。
例えば、「喜び」とか「満足」とか「納得」とか「充実」とか「妥協」とか「達成」とか「夢中」とかそれはさまざまです。

具体的に書き示すと、お腹を満たしても、それは「不満」や「辛さ」や「欠乏」に対する置き換えとしての出来事とも捉えられて、そうなると、それはマイナスな出来事の埋め合わせのようなもので、これではコインの裏表です。
それらの日常的な出来事を思い返してみると、「幸せ」単体を具体的に捉えるような出来事を自分は思いつくことができませんでした。
その出来事がまるまる「幸せ」を直接指し示すような出来事のことです。
「幸せ」が状態であるならば、なおさら、幸せな状態という中に自分はいるのだろうか?自分は日常的に「幸せ」なのだろうか?
それに対して、「そうではない」と答えます。

そんなことを考え出したときに、ちょうどとある動画を目にしていて、その方を見て自分は「この方は幸せそうだなあ」と考えていました。
そこで、幸せそうなこの方を見るときに、他のことを考えることなくその人をただ「幸せ」だと認識していることをふと感じました。

ただ単純に、その人は幸せだと自分は見ている。
この人にとって、これは自分と同じような出来事なのだろうか?
そうしたことを考えることなく、「あぁ、幸せそうだなあ」と見ている。
自分の状況と比較して羨みつつも、その人に対して感じたこの「幸せそう」という感想の中の「幸せ」は一切のノイズを含んでいない、ということを感じました。

そこで、「幸せ」というものは、どうやら他者というものを介在するものなのではないだろうか?
他者という要素に「幸せ」のヒントを私は見いだしました。
自分が他者に感じる「幸せ」こそが純粋なものなのではないか?
他の人が喜ぶのを見て自分が幸せを感じる、そんなシーンを思い浮かべます。
そうして得ることが出来た「幸せ」という認識は、単体として「幸せ」そのものを指し示すには十分なものではないか。
そういうことを考えました。

では、自分がありのままの幸せを感じられるにはどうしたらいいだろうか?
今度はそこに行き着きます。

何を解消したらいいだろうか?何を達成したらいいだろうか?何を働きかけたらいいだろうか?誰にそうしたことをすればいいのか?
どういう要素が取り除かれれば、幸せは自分の領域にあると感じられるのでしょうか?
幸せな状態がやってきたとして、それを長続きさせるためにはいったい何をすればいいのか?

今度はそれを考えていきたいです。


この「幸せ」というテーマは、これからどういう風に進展していくでしょうか。また思いついたら、次回に👀💭


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