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音楽としての記憶#4

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「変態さん」と仲良くなる

ここで音楽の記憶は、高校入学以降の90年代まで一旦消滅する。
生まれは滋賀の最北部で、日本昔話に出てくるような田園風景が広がる閉鎖的な土地だったので、マニアックな音楽情報なんかは一切入ってこない環境だった。
毎日テレビから垂れ流される流行りの歌謡曲に洗脳されてた私にとって、運命の90年代がやってくる。

高校は家から通うのが一番近かった隣町の、熊が出没する山の麓(熊が農業科の牛を襲って地方紙の一面を飾ったことがあった)にある超ド田舎校へ進学する。
周りの生徒を見渡すと「普通」or「ヤンキー」のほぼ二択しかない棲み分けができており、まあ退屈な高校生活を淡々と送っていたわけだが、
ある時から校内で異彩を放っている男女6〜7名ほどのグループをよく目撃するようになる。遠目で観察するうちにこの集団は一学年上の先輩で、女子は2名・残りは男子という構成であることがわかってきた。
異彩を放っていたのは、「普通」「ヤンキー」そのどちらにも当てはまらない制服の着こなし方で、男子はみんなスリムにしたピタピタの学生スボンを履いて上着はモッズコートを羽織り、靴はエンジニアブーツを履いていた。
女子の二人は制服のスカート丈が膝上ショート(普通は膝下丈・ヤンキーは地面スレスレ)、靴はロークのローファーを履いて髪も一人はベリーショートでひときわ目を引く存在だった。
(あの人たちすごい変わっててなんかめっちゃ気になるんですけど〜!)と憧れの眼差しで見ていたが、あるとき意を決して当時の親友ミッちゃんと一緒に「友達になってくれませんか?」と話しかけに行った。
それからその集団(私とミッちゃんは「変態さん」と名付けていた)と仲良くなることができ、そのファッションが「モッズ」であること、女子二人の愛読雑誌が「CUTiE」であることを知り、今までとは全く違った新しい世界の扉が開くこととなる。

CUTiEの発売が毎月待ち遠しかった

都会への憧れとバンドブーム到来

CUTiEの中でも当時連載していた岡崎京子に心酔し、「東京ガールズブラボー」は私のバイブルになる。
サカエちゃんに自分を重ね合わせて「高校を卒業したら退屈な田舎暮らしとはおさらばして、都会のクラブで遊びまくる」ことを近い未来の目標とした。

金田サカエちゃんのように生きる!と決めた

変態さんたちから教えてもらった「The Specials」「Madness」「The Who」などの洋楽と、バンドブームのメインストリームだった「ユニコーン」「THE BOOM」「J(S)W」などの邦楽を聴いて、滋賀の近郊で行われる贔屓バンドのライブにはミッちゃんと駆け回る日々だった。

高校2年の文化祭では、女子ボーカルを探していたパーソンズのカバーバンドで急遽歌うことになってしまい、めちゃくちゃ下手な歌声でバンドデビューもしてしまった。(バンドはこの一回限り)
このときの文化祭で出演していた先輩バンドがラモーンズを演奏していて、めちゃくちゃカッコ良かったのでラモーンズも聴くようになった。

インターネットの無い時代、未知の音楽との遭遇は偶発的な出来事によるものが大きかった。

退屈を燃やせ

他にも欠かさず読んでいたのが音楽雑誌「PATiPATi」「バンドやろうぜ!」で、
音楽が幹から枝分かれしていく際の貴重な情報源だった。
好きなバンドのアーティストがインタビューで「影響を受けたバンド」としてよく名前を挙げていたのが「The Clash」だったので、これは必ず聴かねば〜!と
大きな街のCDショップを回ってやっと手に入れたのが「London Calling」。
月に数回ミッちゃんと電車に揺られて大阪アメ村まで行き、古着とCDを調達することが退屈への抵抗で、
お金を貯めて念願のDr.Marten 8ホールを買った時は嬉しくてどこへ行く時も履いていった。

そんな高校生活を送っていたので、卒業後の進路は迷わず
「実家を脱出するための進学=都会での一人暮らし」一択だった。


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