真夜中は密室
専門学校に通っていた頃、ネットカフェでアルバイトをしていた。二十時からニ時までのシフトで、深夜の時間帯だからこその特徴なのか、個性的な客が多くトラブルが絶えなかった。
真夜中になるとゾンビのようにわらわらと奇人が集まり、戦慄が走ったのを覚えている。
必ずライターと帽子を忘れる男。
頑なに支払いを拒む女。
謎の注射器を持ち込むアウトロー。
様々な奇人が僅かな動機からトラブルに発展させ、無関係な人々を巻き込み、望んでいない群像劇を生み出した。
アルバイトを辞めて十年以上経つが、奇人たちの風貌が今でも脳裏に焼き付いている。その中でも“必ずライターと帽子を忘れる男”は強烈で、突き抜けた存在だった。
忘れる男、Aさんはとにかくわがままだ。従業員に無理難題を押し付けては、興奮でメガネを曇らせた。
ライターをタダでよこせ。
風邪薬を処方しろ。
大人のサイトから請求がきたぞ。
難しい対応ばかりを求められたが、圧力を感じることはなかった。要求は支離滅裂だったが、飄々としていて態度は柔らかい。小熊にメガネをかけたような容姿で、ゆるキャラ的な癒しがAさんにはあった。
ある日、Aさんが顔面蒼白で腹部を押さえながら来店。そんな場合ではないだろと思ったが、Aさんはいつものコースを選択し、足早にブースに向かった。
最初はAさんの体調を気にしていたのだが、繁忙がピークを迎え、存在そのものをすっかり忘れていた。
忙しさが落ち着いてきた頃、Aさんから店に電話がかかる。
「店のトイレの個室に籠っているから、トイレットペーパーを持ってきて」
レスキューの要請だった。一方的に用件のみを伝えられ電話を切られたが、その様子は緊迫していた。僕はトイレットペーパーを片手にAさんが待つ個室へ急いだ。
トイレに到着し、ドアをノック。すると、Aさんから消え入るような声で「上から投げて」と言われる。
緊急事態とはいえ、お客さんに対して物を投げることに気が引けた。下からの隙間はない。戦闘中なのでドアを開けるわけにもいかない。というか、それだけは避けたい。丁寧に渡す方法はないかと考えたが、躊躇している場合ではなかった。僕はAさんに「投げまーす」と合図を送り、個室にトイレットペーパーを放り込んだ。
トイレットペーパーの落下と同時に跳ね返るような音が響き「いでぇっ……!」という情けない声が個室から漏れてきた。僕はAさんのコミカルな声に反応してしまい、つい吹き出してしまった。
Aさんは僕の反応を逃さず「今笑ったよね!」と強気に捲し立ててきた。トイレットペーパーは掴めないのに、ツッコミの反射神経は優れている。
笑ってないですと否定はしたが、この状況も、消え入るような声も、トイレットペーパーが頭で跳ねる音も、ツッコミの反射速度も、全てにおいて間の取り方が喜劇なのだ。平静を装う方が無理だ。
その後、カウンターに現れたAさんの全身からは蒸気が立ち昇り、大量の汗が噴き出していた。
いつもにも増してメガネが曇り、レンズの透明度は失われている。奇怪さが際立ち、また吹き出しそうになったが、苦境を乗り越えた勇敢さと凄みを感じた。
Aさんは意気揚々と右手の親指を立てて「ナイスクリア」と言い残し、会計を忘れて帰っていった。
Aさんが使用したブースへ清掃に向かうと、当然のようにライターと帽子が放置してある。まとわりつく湿気を振り払い、忘れ物を掴んでカウンターへ戻った。
保管庫の扉を開けると、中身はAさんのライターと帽子で溢れかえっていた。
解放された熱気が不規則に揺れて、漂った。